TOPICA PICTUS(2)

TOPICA PICTUSのイメージが観る者に想起させるものは多様だが、その材質がキャンバスと絵の具であるからという理由で、各作品はこの世にある様々な過去の絵画作品を思い浮かべさせる力をもつ。

一昨年ほど前からこれまで、いくつかの会場で本シリーズを見てきて個人的に感じるのは、まず会場ごとのまとまりによって、その作品群がある特定の過去の絵画の記憶を想起させようとしているのではないかということだ。

はっきりと、どの時代の誰による作品を思い起こさせるとか、そこまで明確には言えなくて、あくまでも「なんとなくそんな気がする」というだけの話だが…。

それは選択された色彩と明度と彩度の調節によってだ。とても鈍くて重い色調にまとめられた絵の具がガッツリと置かれているときに感じさせる、かつての絵画がかならず備えていたはずの鬱陶しいほどの重量感や鈍さ、不鮮明感の記憶が、ありありとよみがえる。あるいはほとんど半透明のジェル状メディウムが色彩に浸食されながらキャンバス上に擦れをともなって付着しているときも、やはりある時期のある特定の絵画から感じさせられた「そのときの感覚」がまさに今ここによみがえるかのようだ。

前日に書いたように、TOPICA PICTUSはそのイメージが自らの感覚器の基盤上に安定した様子であらわれてはくれないので、その不安や混乱の思いで観ているのだ。にもかかわらず、その混乱した領域内には、なつかしさとは無縁のフレッシュな過去が後から後から沸き起こってくるかのようだ。

最近ベルクソンなど読んだから、それにカブれてるのだろうと思われそうだが(たしかにその通りだが)、この混沌こそ、いわば存在論的な過去の手触りではないかと…そんなことを思いたくなる。