たけばし2

会期終了間近ということで、一部展示替えされた「TOPICA PICTUS たけばし」をふたたび観に行く。

水が流れて、その跡が窪み、蛇行しながら海へ近づき、川になった。だとしたら、水が先で川が後か。しかし、水はもともと地面の起伏や窪みに沿って流れていた。水そのものの力もあったが、地面に影響され翻弄された、その結果が川だ。それなら、枠組みとしての川が先で、そこに水が流れたのではないか。

どちらが先とは決められない、長い年月をかけて水の流れと地面の形態が相互に影響を与え合いながら、こうなった結果が川である…というのは、目のまえの状態からいったん目をそらして思い浮かべるしかない想像上の物語であり、そう説明されても、実際はそのように見えない。むしろその説明のとおりには見えないことに驚く。いま、ここに川がある、その状態をどう考えれば良いのかという話をしている。

水の流れはそれだけとしてしか認識できないし、窪んだ形は形としてしか見えてこない。水と形との、現在進行形の運動そのものは認識できない。流れと形が、そもそも折り合わない。それぞれ別の出来事にしか感じ取れない。にもかかわらず、そこに窪んだ形がなければ、水の流れがありえないのも事実だ。

TOPICA PICTUSを観ている自分に思い浮かんでいるものは、そういう感じに近い。交差する二つ以上の要素が影響しあった結果としての、今この状態、そのありようだ。TOPICA PICTUSに根本的な不安さ、不可解さ、落ち着かなさをおぼえる理由は、想像される工程順序にいつまで経っても確証がもてないこと。ある因果としてこれが出来上がった、そこに時間が流れたという説明が、まるで想像上の物語にしか思えない感じがするところにもある。