長谷川利行展


雨がざあざあ降りの日。府中美術館の「長谷川利行展」へ。長谷川利行は昔からわりと好きな画家であった。息継ぎの感覚が異常に短いというか、リズム感が異常に単発的というか、高速の、針のようなタッチで、切り込むような、打ち込むような線による空間のつかまえ方で、絵の具自体のボリューム感がもたらす効果はほぼ信用してないような、パンキッシュというか、まるで楽器を異様に粗末に乱暴に扱ってドカドカとやかましい演奏をしているかのような、しかしその音には独自の強い吸引力があるような、そんな印象をもっていた。


まとまった量の作品を観たのはこれがはじめてだが、しかし思ったよりも尖ったような感じはなくて、ふつうに良い感じの画家っぽいと思った。油絵のもつ質を素朴に肯定した作品も多いのだなと知った。キャンバスの白地がほとんどの上に掠れるような細かくて素早い筆致が走るだけの風景画など、個人的に長谷川利行といえばあの感じみたいなやつはそれほど多くなくて、絵の具の扱い方はわりと多様な印象である。時代としては1920年代半ばから1939年頃までで、実質的には十年に満たないくらいの期間に作品が集中する。時期によって画風や傾向に明確な違いは見えないが、やはり30年代以降が、とりわけ1935年以降の作品に惹かれるものが多かった。けっこう派手というか鮮やかな色彩を好むのだなとも思った。絵具自体の物質性が感じさせる光ではなく、映像のような光への嗜好が、ことに人物をモチーフにしたものなどに顕著だと感じた。形態のとらえかたなど全然映像的ではないけれども、筆致による色と色が光の乱反射的にぶつかり合うような表現がそう思わせるということだ。鉄橋が川面に映る描写など如何にもそういう感じだし、睡蓮の絵などもそう。駅の中やカフェなど、黒を基調にして群集が描画されたりするとき、そのざっくりと塊でとらえる感じなど意外にマネっぽさもある。「ガラス絵」作品を幾つか残しているのも、そういう傾向を感じさせる。ガラス絵はガラスに油彩で描いて裏側から見る方法で、こういう手法の画家が他にいるのか知らないが、この手法だとガラスに密着した絵の具の発色が異様に鮮やかになって物質感は完全になくなる。まるで油彩作品を高解像度で撮影した写真のような感じになる。はじめて見ると、けっこうショックである。あと、作品に靉光を描いた肖像があって、これは有名な絵だと思うが、あらためて観て、あ、そうか、これ靉光か、と思った。どうもいつの間にか、この顔が長谷川利行の顔で、つまり自画像だと思い込んでいたらしい。