フレーム問題とゼノンのパラドックス

フレーム問題って、ゼノンのパラドックス(運動のパラドックス)問題そのものだなと思った。ウィキペディアのフレーム問題の概要に書かれていることは、ほとんど亀に追いつこうとするゼノンを思わせる。

フレーム問題
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%A0%E5%95%8F%E9%A1%8C

ゼノンのパラドックス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9

「計算」は、計算が成立する空間を想定しなければ不可能である。つまり計算を支えてくれる均質な空間を前提とする。もしAIがこの先もフレーム問題に苦しむならば、それはベルクソン的な批判の有効性を証明するとも言えるのだろう。いわば前提としての均質空間を想定していることの間違い。物理学が前提とする基盤に対する間違いの指摘へと、つながることもあるのだろうか。

なんで急にそんなことを書いてるかというと、仕事のときに、言わなくてもわかるだろう?は、計算しなくてもできるだろう?と相似である、と示したとき、そうかもしれないが、なにしろ前提が共有されてる必要はある、みたいなことを相手から言われて、そのあと驚くような質問をされたときに、あ、これってフレーム問題だ、、と思ったのが、きっかけ。

ちなみに、ウィキペディアのフレーム問題記事の最後には「プログラムの世界において類似の現象に無限ループがあり、こちらはタイムアウトである程度の解決を図っている。」との記述がある。これって、実際のところ、人間の社会も一緒ではないかという気がした。つまり物理や科学を用いて物事を進めていたとしても、意外に多くのタイムアウト判定を利用して、そのへんのエラーをハンドリングしているのではないかと。

言うまでもないが誤解のないように付け加えておくけど、そもそも人間社会はいい加減な判断と場の空気で、なあなあでやってる、曖昧にファジーに適当に物事を進めてる…みたいなレベルの話ではなくて、もっと厳密な、しっかりと計算と理論で物事を進めている拠点や場においても、いやむしろそういう場こそ、タイムアウト判定はしばしば発生するのではないかと想像する。(あるいは、それこそ寿命が、タイムアウトではないかと…)