「流れよわが涙、と警官は言った」で、アリスが服用した薬物「KR-3」についての検死官の説明は、ちょっとわけがわからない、どうも核心部分が見えない、肝心な箇所に答えてくれずに、はぐらかされてるような印象を受ける。そのわからなさを、勝手な想像で埋めたくなる。
アリスの想像した「有名でなくなりその価値を失ったジェイソン・タヴァナー」のいる世界、アリスによって欲望されたその世界が実現してしまう。タヴァナーもバックマンも含めた全部の潜在性が有効になって、その世界でタヴァナーはすべてのIDを失って「存在しない」ことになる。ただしそれが、服用した人物の主観としてそうなるなら話はわかるのだが、薬物を服用した人物も含む世界全部がそうであるという風に、少なくともこの小説では描かれている。誰もが勝手に薬物をやって勝手な幻覚を見ているならば、このひとつの地平は何も変わらず盤石なのだけど、そうではないと、この小説ではそう書かれているというところがミソだ。ある登場人物の脳内で起きたことがその小説世界のすべてで、その登場人物が死ぬと、少なくとも主人公が「そのはず」と思っていた世界が戻ってくる。これはSF小説としての世界設定が云々というよりも、書き方の問題、小説の仕組みの異様さなのか。
『われわれは同時に、現実と非現実のふたつの空間回廊を占めているのです。ひとつは現実です。もうひとつはKR-3によって一時的に出現した、多くの可能性の中のひとつの潜在的可能性です。しかしほんの一時的なものです。およそ二日です。』とは、脳が世界を認識する仕組み(つまり主体が物事を認識する仕組み)が説明されているようにも思えるが、そうではなくて、これはむしろ、認識によって世界が生じることを前提とした、その成り立ち方の説明ではないかと思う。誰かがものを感知するのではなくて、そう感知したように世界が生じている状態だ。限りあるリソース内で個々が好きなようにイメージを展開しているのではなくて、イメージは物と同一でありしかも唯一だが、にもかかわらず、それは任意なのだ。誰もが勝手に…など考えることがすでに不可能だ。混乱は起こるのだ。それはたぶん「巻き添えになる」ということとも少し違う。「それ」がすなわち「すべて」なのだ。だから、そうなる。
非現実であり、潜在的な可能性であり、二日足らずのほんの一時的なものだとは言え、アリスの脳に「すべて」が、つまり全宇宙の「基準」が、移管してしまうようなものか。それは脳であるかぎり、アリスでなくても誰の脳でも可能な移管だ。おそらく「KR-3」の危険性とはそのことにほかならない。ネットワーク上の巨大演算装置からとつぜん自宅の小さなPCに、全システムの制御がコピーされて移管したようなものだ。ただし当然、自宅PCのスペックでその計算を続けたらPCは壊れてしまうだろう。アリスが死んでしまったみたいに。