王様

19世紀までが、全体とか意味とか世界とか、その核心をとらえようとするための挑戦の時代だったとすれば、20世紀はその取り組み自体への懐疑、いったん退却してからの作戦練り直しの時代だった。というか、練り直すということ自体の不可能さ、そのような取り組みで想定される対象が、もはや確固たるものではない、いわば敵を見失った、その喪失を前に私はどうすれば良いのか、それを手探りせざるをえない時代となった。

君主制は、壮大な比喩であり擬人化でもある。20世紀は、前世紀までに対する強い自意識をもって生きざるを得ない世紀となった。この私が20世紀にほかならず、それまでの時代とは違った、それまでとはまったく異なる期待や不信をもたれて、そのプレッシャーに耐えつつ、何とかやっていく、この私自身を意識せざるをえない何かとして、きわめて強い回帰意識をもった時代として進むことを余儀なくされた。それが宿命付けられた世紀であった。

これまでの時代を懐かしみ羨みときには嫉妬する、そのような心をもたざるをえないのが20世紀の脆弱さだった。ひ弱だが心の優しい、根は正直な子だったのだけど、苦難は多く、与えられた責務をきちんとこなし得たのかどうかは怪しい。しかしできるだけのことはやった、成功も失敗も含めて、成果はその取り組みを記録した資料とともに後世に引き渡される。