三菱一号館美術館にて。あまり期待もせずに行ったら、けっこう良い作品が多くて楽しかった。フィリップス・コレクションと言えば、今から八年前の2010年に乃木坂で、やはり同コレクションから編成の展覧会が開催されているのだが、あのときはモダン・アート・アメリカンなるタイトルで作品は19世紀~20世紀のアメリカ絵画中心の、これはこれでかなり面白い展覧会だったのを思い出したが、しかし今回は18世紀~20世紀のヨーロッパ中心、前回とはまるで異なる雰囲気で、こんな展示も可能なのかとおおよそ近代美術に類する作品ならばあらかたを網羅しているだろうものすごいコレクション数なのだなと、改めて驚く。
描き方を変えるとはどういうことか?
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モチーフ(対象)を変えるのか、見方を変えるのか。見方とはそもそも何か?認識のし方のことか?
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見えているものと、認識したものが違っていたら、絵に描かれるものも変わるのか?
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描き方を変えるとは、手を変えることか?画材や方法を変えることか?
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絵を観る人は、絵を描く人の描いているときの感覚を、絵を通じて自分の感覚として再生する。描かれた対象を「たしかにそうだ」と感じようとする。
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絵を描く人は、描きながら想像しているし、期待している。出来上がった絵を想像しているのではなく、今ここで描いている絵を、後でそれを観る者の感覚として想像している。
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描かれた対象を「たしかにそうだ」と感じようとするのは同じだ。
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「私が描いたこの絵は、私がこのように見たと、この絵を観た者は思う、そのことを私は信じている。」と想像するのは、絵を描く人でもあり、絵を観る人でもある。
クールベ「ムーティエの岩山」は「私がこのように見た/観た者がそう確信する/私はそれを信じる」の証拠のように存在していると思った。これをこのような絵にしたのはクールベだが、クールベだけではなく描いた人と観た人の共犯の感覚として、その作品はあると言える。しかし、クールベの確信する力と腕力は強い。
同じことはマネにも言える。それが今までのように呼吸してないからって、伝統的な空気の流れがないからって、それを簡単に「美しくない」なんて言うな、色調と質を意図的に抑えて、静かに沈みこむような画面全体をもう一度よく観ろ、あるいは私の描いた絵の背景のわけのわからないグレーに塗り込められた煙だか水だかまるでわからない何もないくせにむっちりと充満した灰色の空間を観ろ、こんなのを観るのははじめてだろう、一体これは何だ?観たお前が、描いた私に教えてくれないか?
テンポをキープしながらはじめて異なる音源をターンテーブルで繋いだヒップホップ発明者のモチベーションは、今この場のグルーヴを途切れさせて踊りを中断させたくないという理由があっただろうけど、同じことは絵画をリミックスする際のモチベーションにもなりえたか。
絵の具から光の透過率を下げて、色調と質を抑え気味な諧調コントロールで、空気と光の流れをあえて停留させ窒息的な空間を立ち上げた。絵画に従来ゆるされてきたはずの伝統的なスムーズさはなくて、良いも悪いもなくて、ある特殊な光の明るさの中に絵があるだけだ、このことの評価はまだ誰にもわからない。
マネを観ているときの緊張感は「このことの是非はまだ誰にもわからない」という雰囲気を、未だに、濃厚に漂わせる点にあるようにも思う。この絵はあと何百年が経過しても、やはりいつまで経っても、ある種の緊張や不安をたたえた謎として、将来に向かって問いかけるようなあらわれ方で存在するのだろうか。
その他印象的だったのは四点のボナール、一点のヴィヤール、ベルト・モリゾ、ゴッホをこれだけ間近でじっくりと観たのも久しぶり、ブラックの固有のマチエールそして鳥、マネのグレーの輝きと、マティスのグレーの輝きの響き合い、ドガの踊り子の足の捻り方はある静止した時間に可能な一つらなりの身体の動きをかすかに逸脱していて、そこにはおそらく動作の過程を経た複数の時間が内包されている。未来派の解釈とはまた違った動きの捉え方が試みられているように思える。ニコラ・ド・スタールを観ると、高校時代(にニコラ・ド・スタールが大好きだった予備校の人)を思い出す。