ビデオゲーム黎明期に子供だったので、インベーダー、ギャラクシアンパックマンドンキーコングゼビウスと、ビデオゲームのグラフィックの進化をリアルタイムで如実に見てきた。ただし今思い起こすなら、それは技術進化というよりも、インベーダー以降の全タイトルが、グラフィック進化によって可能となった物語性を深化させたのだと言えるだろう。

ゼビウスというゲームはリリースが1983年だそうで、ならば当時の僕は12歳だったことになる。あれをはじめて見たときの驚きは、今でもよくおぼえているけど、それはつまり立体表現、陰影にあたえられた意味というか、そのことで表現された何かの大きさに驚かされたのだった。

それは陰影というよりも、実際の日向と日影だった。単なる明暗ではなくて、もっと様々な知覚の複雑な寄せ集まった何かだった。温度感の違いや、渇きと湿り気、空気の流れの速さと遅さ、目に見えぬ小さな生き物の住み分けの気配さえ、そこには感じられた。粗い粒子で低い再現度であるがゆえに、むしろそれは現実よりも濃厚に、様々な気配を抱え込んでいた。

しかし思えば、限られたリソース内で何とかやりくりする、少ない選択肢の中で最善を目指すという取り組みを、コンピューター世代のエンジニアやデザイナーたちは半世紀近く取り組み続けてきたことになる。でも対象を問わず、技術にかかわるとはつまりそういうことなのかもしれない。

今の自分はそういったビデオゲーム分野に対してノスタルジーを感じることはあっても、現在進行形のそれにほとんど興味はなく、ならば自分が何を面白がっているのかを、ここではっきりさせるのもなかなか難しくて書く手がおぼつかなくなるけど、何事であれ今あたえられたリソース内でしか考えていない、その枠内にとらわれているはずだと、常に意識していたほうがいい。

ゼビウスの美しさは、その根本的な貧しさと切っても切り離せない。むしろその本来性を暴くような美しさだ。何事であれ美しいということの内実にはそれが含まれている。