ある程度年齢を重ねた人間が、夢を見るとき、若い頃の自分を登場人物とした、今の自分が昔の自分を見下す視点からの夢を、見がちだろうか。それは結局、昔の自分が今の自分にとって、もっとも親しみ深いフィクションの登場人物だからか。

昔の自分に向かって、あのときああしておけばとか、こうすれば良かったとか、振り返って思いたくなるような心の動きは意外と少ないもので、というより昔の自分を今と切り離せるわけではなくて、昔、わからなくて手探りだったことを、今になってわかったような態度で振り返りたくないし、今の視点から、かつての記憶を打ち消すのは不可能だし、そうしたいとも思わない。あるいは、かつての記憶を打ち消すのに、もっとも近いのは、忘れてしまうということだ。夢はむしろ思い出させる、打ち消される前の段階を呼び起こす。つまり修正という可能性さえなかったときを蘇らせる。

昔の自分が、未来とか来たる時間とかそれを経た後の視点とかをまるで知らずに、何事かを思案しながら「現在」を移動している、かつての私は今ここにいて、昔が今であること、それこそが夢だ。しかし、それがその「真っ只中」ではなく、どこか「見下している」感覚も、たしかにあるのだ。

なぜ夢から目覚めた後に、もの哀しい気分になるのかと言えば、本当ならば夢の方にこそ生きていたことを思い出すからでもあるし、あちら側とこちら側の境界を越えて「見下した」経験から、そんな風に自分や世界がちっぽけであることが哀しいからではないか。