家の中

島尾敏雄「家の中」を読む。すごい…。「死の棘」で描かれたあの地獄絵図が、ついに生まれるまさに前夜、という感じで、ほとんど奥さんが「変貌」していく予兆に満ちていて、モンスター小説というかホラー小説というか、エヴァンゲリオンがついに暴走というか(?)、そんな感じもある、、、などと言ったらあまりにも酷いか…。

とはいえ書かれていることも相当酷いのだ。それはそうなのだが、それにしてもしかし、この三人称感覚はやはりものすごいものだな…と、そこには驚いた。これはもはや、そのような対象との距離感しかありえない、それ以外の言葉がありえないというくらいにまで追い詰められた末の三人称ではないか。子供の視点、猫の視点、妻の視点、そして夫の視点、ここまで第三者視点を貫き語ること自体が、とても背徳的な感じがする。この、どこまでも当事者になれない、当事者だなんて笑わせる、地獄の奥底にまで堕ちたとしても、当事者になってなりようがないじゃないかと言わんばかりの、すさまじい他人事感と離人感。小説としてその世界を書くことの本質的な罪悪に、覚悟を決して立ち向かっているのか。ほとんど冷酷としか思えないような透徹した観察眼だ。出来事のひとつひとつが、まさにその目で見たと云わんばかりだ。

不貞をはたらき、家族をないがしろにし、奥さんに暴力をふるう夫としての男性、そんな主人公が、滔々と自己を語る、そういう小説が過去の日本にはとてもたくさんある。場合によっては被害者ヅラしているそんな主人公を、今の感覚ではありえないというか、信じられないと感じる向きも多いと思うが、ここで、そんな作品の主人公は何を求めているのか。罰を求めているのか、救済を求めているのか、あるいはもっと別のことか、かなりわかり辛いのだが、ただおそらく現在の地点では考えられないような、そこにはある種の、キツイ枠というか、何かヤバい道行きの不安というか、そんな嫌な予感が、語ろうとする者の四辺を囲んでいたのだろうか。本作の主人公も、奥さんが「変貌」し始める予感を感じ取ったときに、強い恐怖とある種の期待、希望を感じ取っているかのようなフシがある、そんな気もする。というか、家庭崩壊というのが、昔は現在よりもよほど重大で重篤な、あってはならぬ一大事だからこそ、そのような状況がくりかえし書かれたのか。そういったものを成り立たせることの出来た大きな力が、今は消失してしまったので、かえって昔のことを理解できなくなってしまったということなのか。単純にそれだけの話なのか。

読んだことは無いのだが、渡辺淳一の小説ってどうなのだろうかと思って、以前少しだけ「失楽園」を読んでみたことがある。ざっくりした印象としては、不倫の関係の男女が、やけに性交の快楽についてこだわるというか、とにかくその行為から受け取ることのできるものを、主人公と相手が一緒になって独特な細かさで反芻する…みたいな感じだった気がする。とはいえ文庫二冊分の大長編のさわりだけ、kindleのサンプルで読めるところだけしか読んでないので、それだけで、さすがにいささか乱暴なのだが、ここで仮に「失楽園」がそういう小説だとすれば、不貞の現在バージョンとしては、まさに理にかなった進化を遂げているというか、今や私小説的な不貞にまつわる、そのような作品を成立させる諸条件というものがすでに失われてしまったのだとすれば、互いの身体フィードバック以外には何もなくなるだろうから、それはそれで確かにそうなるかもなあ、とは思う。

しかし…いや、そうではなくて、やはり冒頭に書いたエヴァンゲリオンの方が、むしろ「死の棘」の今、なのかもしれない。日本的な家族と自分の問題を炙り出すために、かつては不貞が必要だったけど、今はそうでもない、ただし裏切りや不信、不安が無いわけではない、ということか。だからエヴァンゲリオンの方が、むしろピッタリくるかもしれない…とか、そんな根拠なしの思い付きで、色々書いていてもしょうがないけど。