遺影



古い写真を見ているときの不思議さは面白い。自分が撮ったのだから、かつてその風景の中に自分も居た事は間違いないはずなのに、そのことがもう、まるで信じられない事のようになっている。そのような風景がこの世界にかつてあったことはかろうじて信じられたとしても、そこに自分もたしかに存在したのだということまでは信じることができない。ということはつまり、そのような風景がこの世界にかつてあったことを、実感として僕は信じることができていないのだ。それはまるで、死の世界のように感じられもする。決してあのときには戻れない以上、やはりあのときの世界もあのときの自分も、おそらく既に死んでしまったのだ。今ここにいる自分は、間違いなくあのときの自分ではない。その意味で、写真というのはレコードとはまったく違うものだ。写真はレコードのように、何の前触れも無くいきなり「それ」を再生してくれない。写真は常にそれらしき何かとして「それ」の気配を漂わすだけだ。というか、もしかすると写真というのは、お葬式で飾る「遺影」というもののために発明されたのではないだろうか?故人の生前の写真というのは、写真がもっとも写真としてふさわしいあり方をしているときだと言えるかもしれない。逆にそれ以外の用途であまり使うべきではないのかもしれない。