不忍池はいま、枯れた蓮が水面を覆っていて、見渡す限りどこまでも、枯れ朽ちた薄茶色の蓮の残骸ばかりが冬の空に向き合っている。これは見ようによっては、おびただしい数の死骸がぎっしりと隙間なく横たわっている光景にも見えるし、膨大なゴミ集積場の風景のようでもあるし、生気のまったくない、息づくもの、うごめくものが存在しない死の景色、みたいにも見える。まあ、鴨とかウロウロしてるので、生き物の気配がまったくないわけではないけど。

しかもまた、春が来て夏が来れば、この池にはふたたび青々とした巨大な茎や葉が、気味が悪いほどの旺盛さで伸び広がり、いつもの蓮が、またいつものように植物の濃厚な匂いをたたえてぎっしりと生え揃うだろう。

蓮は、意識を持つかどうか、持つとしても連続した時間の流れを知覚するかどうかは不明だが、今ここで見ている枯野原みたいな風景と彼らの生死の概念は、また別なのだろうと思われる。今彼らは確かに生きてはいないが、それは今そうだというだけで、どうせ春になればまた生きている。枯れたものと生えたものが別個体であろうがなかろうが、連続した同一性を保持していようがいまいが、それはあまり問題ではなく、彼らはただ、死んだり生きたりする。

蓮にとってはそれが当たり前で、蓮にしてみればむしろ、人間の生に対する感覚が理解の範疇外だ。しかし人間がまがりなりにも生きるために何らかの幻想も必要だと云うなら、それはそれで仕方がないのだろうと、蓮は人間をそのように見なしている。

不忍池に、いま蓮が見ている夢の絵が、浮かんでは消える。その合間を何羽ものカモメが、風に流れながら目前の杭に留まろうとしている。