千葉雅也の小説「エレクトリック」で、主人公達也の父親の部屋には「小瓶に入った田宮のプラモデルの塗料は、すべての色をラックまるごと買ってある」ので、達也は幼少の頃、その小瓶を開けて匂いを嗅いだり、混ぜ合わせたりして「ジッケン」と称して遊んでいた。
自室に、プラモデル用塗料が全色「ラックまるごと」置いてある状態とは、小学生くらいまでの自分にとっては、たぶん夢のような話だったと思う。プラモデルに夢中になっていたのはたぶん小学生までだったと思うけど、自分はもちろん周囲の友人にも、そんな豪勢な子供はいなかった。キット本体のほか、説明書に記載されたとおりに塗料その他の用品を買い求めると、総額は本体の倍近くになることもあった(レストランで酒代を含めた総額が食事代の倍近くになるのと似てる)。しかし塗料はなるべく指定色を指定されたとおりに使いたい、妥協はしたくないのだ。エアブラシなどにあこがれたのも、この頃だったはず。結局エアブラシを実際に購入したのは、画材として試す理由で大学生になってからだったが。
プラモデルを作るというのは、モノにもよるけど、労力にせよ所要時間にせよけっこう途方もないもので、ある意味、小説しかも中編以上の長さのものを読むことに近いところもあると思う。その制作過程には、簡単なところから難しいところまで起伏があり、ほとんど我慢してるだけだったり、ひたすら注意深く進むことを強いられたりと、決して楽しく快適な時間ばかりではないし、終わり(完成)が近づいてくることへの複雑な感慨をおぼえる感じも、少し似ているかもしれない。
久々に、プラモデルを作りたいと思うことが、今も無いではないのだけど、実際にはやらない。やらないまま何十年も過ぎた。今後もたぶんそうだろう。