DVDで小津安二郎麦秋」(1951年)を観る。もう何度も観たし、しばらく観なくていいと思っていたのだが、再生を始めるともう画面から目が離せなくなってしまう。わかっているつもりでも、結局は驚かされる。

原節子笠智衆の住む家の家族構成や関係者の相関が、冒頭から見ているうちにじょじょに明らかになっていく、その速度がすばらしい。この適切なスピード感をもって、原節子の勤め先や上司の佐野周二、友人の淡島千景や他の女性、近所の二本柳寛、宮口精二など、いくつものカードが次々とあらわれるように登場してきて、それらが有機的に絡み合うかのようにして、出来事の全体が、順序付けの手触りも説明の匂いもなく、まるで自然現象のようにしてゆるやかに、しかしこれ以外にないという緻密さで、はっきりとした秩序をもって進んでいく。この川の流れのような、大きさやスピードも様々な、水面にいくつもの水流が折り重なっては進んでいくのは、いったいどういうことかと思う。

人物間にさまざまな相違はある。大雑把にわければ旧世代と新世代とも言える。笠智衆一家や父母らの、家庭の感覚、仕事の感覚、苛つきや焦りや不安、そして原節子の将来を思う感覚があって、その一方で原節子淡島千景ら友人同士の気安い親しみや距離感、その旧世代とは隔絶された感覚があって、その世代的な相違があって、しかし新世代な彼女らの関係も一枚岩ではなく結婚観や人生観や暮らしの違いはある。そして最終的には、そのどれにも区分することのできない、原節子の単独的な考えが、屹然とあらわれる。

それにしても、杉村春子の冗談半分な希望というか願いに対して原節子が首肯する場面の衝撃。もうわかっているのに、だからこそその瞬間には心打たれる。いや、何度観ても、あの瞬間に何事が起きているのかなんて、きっと金輪際わからないのだ。だから二階に上がって一人で涙にくれる原節子のことも、きっと黙って見守るよりほかないのだ。

小津作品で、原節子はたびたび自身の行く末を自らの意志で決定する、せざるをえない場に立たされて、そのたびに毅然と対処してきた。それはときにはある相手との結婚の決心であり、ときには自分ひとりで生きていく決心であった。そこに幾つもの意味を読み取れるのかもしれないけど、しかしこれは物語ではないし、因果でもないし、意味でもなくて、だから良いとか悪いとかではなくて、ただ人が生きている軌跡の示す、ある抽象的な形体的な美しさのようなものだと思いたい。

結婚というのが、これほど女性一人の孤独な決意を必要とするものであるのが、まさに旧来ということでもあるけど、時代がとか社会がとかではなく、与えられた条件下で、力を尽くして、それにふさわしく在ろうとする人。浜辺を歩きながら、いつもの柔らかい口調ながらも毅然とした原節子の言葉を聞く三宅邦子の、どこか遠いところを見るかのような表情。