二階

小津安二郎作品における「二階」の描かれ方についての有名な批評的指摘。小津作品にとって「二階」という場所は、時速する制度や説話の磁場からなぜか忽然と切り離されて、ぽっかりと宙に浮かんだ特別な場所のようになっていて、その場所にかぎって、そこだけで可能な関係性をたしかめ合うことのできる登場人物が存在する。それが一階とつながっていないあたかも宙に浮かんだ特権的な場所のように感じられる理由は、階段を決してカメラが捉えないこと、一階の人が廊下の奥へふっと消えて、二階の同じ位置にふっとあらわれるような、特異な編集によって家屋構造としての二階が表現されていることにある。

という話を聞くと、どうしてもその編集アイデアの面白さに囚われてしまいがちだが、そのような操作によって表された二階という場所がそれなりのリアリティというか説得力をもちうる理由があるはずで、それは少なくともあの時代において、家屋の二階という場が、もともと制度や説話的な磁場、すなわち世間の一般常識みたいなものから、少しだけ切り離されがちな(その可能性を秘めた)場所だったからだろう、ということを、昔の小説を読んでいると考えさせられる。

昔の小説には「二階」がたくさん出てくる。大抵の場合それは借間で、家主とは別の人物がそこに間借りしている。独り身のこともあれば、所帯のこともある。あるいはどういう経緯で一緒にいるのかわからないような男女のこともある。それは家族内家族、あるいは家族の端にぶら下がっているもう一つの家族、あるいはある短期的な用事や目的のために結成された一時的なチームだったりもする。彼ら彼女らの「二階」は、確固たる世間からは、ある意味では切り離されてもいるけど、だからと言って、まったく別の場所に閉じたまま宙に浮かんでいるわけでもない。むしろ家主と頻繁に挨拶を交わし、必要なやり取りもするし、来客も通すし、場合によっては家主らも含めて一階で囲炉裏を囲んだりもするし、留守時の来訪者からの言伝とか伝言を依頼したりもするし、そうかと思えば、時と場合によっては脱兎のごとく荷物をまとめて家を出て行かねればならぬときもあり、その様子を家主から心配そうな顔で見送られたりもする。この他人とも身内ともちがった「一階」と「二階」の住民の関係性、この人同士の距離感こそは、世間とか世の中において今やまるで失われてしまったものの一つだろうなと思う。

(こういうのを今、懐かしいとか復活させるべきとは思わないのだが、そういうこととは別に、かつてあったものの気配とか予感のように薄っすらと感じ取っている、そのことを意識している。)

(小津安二郎作品の「二階」はおそらく意図的に、ある当事者だけを対象にしたより幸福で密室的なものへ閉じてしまっている。現在当たり前になっている人間の世間的距離感の感覚的なものを、かなり先取りして表現していたようにも思われる。)