「沓掛時次郎 遊侠一匹」(1966年)を観ようと思ったきっかけは、小林信彦の「おかしな男 渥美清」を読んでいたから。この本はずいぶん前からゆっくり(主にトイレで)読み進んでいるのだが、そろそろ佳境というか、すでに映画「男はつらいよ」人気の高まりが揺るぎ無いものになりつつある時期に差し掛かった。

「おかしな男 渥美清」を読んで思うのは「沓掛時次郎 遊侠一匹」に出演した渥美清が彼自身のなかに「寅」を発見したのかもしれない、その原形のような何かを、小林信彦は見ているかのようだ。

渡世人に憧れて、渡世人風の口を聞いてその気になってるけどヤクザになりきれてない中途半端な人物は、「沓掛時次郎」にも「瞼の母」にも出てくるのだが、渥美清はそれこそまるで「寅」のように、その気になっていっぱしの渡世人を気取り、結果無残な最期を遂げることになる。

任侠映画の主人公と、それに憧れる人物。映画としては1969年に第一作が公開される「男はつらいよ」の主人公寅も「テキ屋」でありヤクザではあるのだが、しかしヤクザでありながらヤクザに憧れる、そんな二重の自意識、複雑な思いをかかえて生きた人物とも言えるだろう。

1970年を境にして、世の中の空気も変わったとして、その変化の質を示す一例が、寅のようなアンビバレンツ、中途半端さの内面化、その許容だっただろうか。

などと考えつつ明日は書店で伊藤彰彦「仁義なきヤクザ映画史」を買う予定。