節子

昼夜むしあつく、もう九月も終わりだというのに、こんなことでいいのかと思うが、空の雲だけはすっかり秋だ。

原節子の「美」は僕の中ではグレタ・ガルボを凌いでますね。彼女を撮ったどの監督も彼女の比類のない美しさを認めています。関係ないけど、僕は自作の美的欠如を補う手段として画面のどこかにちょいと原節子を描き入れることがあるんです。すると途端に画面は生き返ったように美を取り戻します。

(横尾忠則 朝日新聞 2010/7/18)

https://ryo-ta.hatenadiary.com/entry/20100721/p1

これ、はじめて読んだときは、言葉のあまりの唐突さに仰け反ったけれども、ここで横尾忠則が云いたいことが、今はすごくわかる気がする。たとえば日記として僕や誰かが日々営んでいる文章の連なりに、「ちょいと原節子を描き入れる」だけで、文章そのものがまるで生き返ったように美を取り戻すことは、たやすく想像できる。原節子なら最高だけど、別に原節子じゃなくても、誰でもいいのだ。自分の身体の狭い枠とはまったく別の、できれば自分にとって美しい誰かであればいい。それがちょっとそこに入ってきて、それだけで時間と空間が刷新されて、何か新たなものがはじまる。そこで予想もつかない言葉が口にされて、空気を震わせて、それだけですべてが生き返り、救済され、報われることになる。そのような運動の連続したものを呼び込みたい、そういう試みを味わいたくて色々と考えている。