原節子

原節子の「美」は僕の中ではグレタ・ガルボを凌いでますね。彼女を撮ったどの監督も彼女の比類のない美しさを認めています。関係ないけど、僕は自作の美的欠如を補う手段として画面のどこかにちょいと原節子を描き入れることがあるんです。すると途端に画面は生き返ったように美を取り戻します。(横尾忠則 朝日新聞 7/18)


これはすごい…。「カレーを作ってるんだけれども、味がきまらずおいしくならないとき、それを補うために僕は、あの有名な、誰もがおいしさを認めるあのケーキ屋さんのケーキをカレーの中にちょっとだけ入れる事があるんです。すると途端に…」みたいな話ではないかとも思う。いやでも、それも何か違う。カレーの例えではだめだ。カレーは、ごった煮だからだ。すべてが、一様なカラーに染まってしまうから。だから嫌な例えになる。というか、料理の例えでも良いのかもしれないが、問題はそこに原節子が挿入されてしまっても良いようなことなのだ、というところだ。原節子の受け入れが可能だ、という事だ。それは受け入れ元も受け入れ先も共に活きて、相互に向上が見込めるという事か。


いや、それも全然違う。「受け入れが可能/不可能」などという話はものすごくつまらない。下らない。組み込みで、加算されて良くなるなんて信じない。あらかじめ、原節子待ちをしている訳ではないのだ。というか、そんな「待ち」ほど退屈なものではない。では?一体何か?原節子を描き入れると画面が生き返るというのは、一体どのような事態をあらわしているのか。


たぶん、唐突に原節子を思い出して、それで、あぁとため息をついて、何もかもが救われるような気持ちになる事なのだ。おそらく、その感触の事を言ってる。それが絵画作品の中で起こるということ。…いや、絵画作品という考えを一旦頭から廃棄せよ。それを言い出すとつまらなくなる。絵画作品は最後でよい。そういう言葉の枠なんかいつでも良い。


たぶん、唐突に忘れていたものを思い出して、それで「あぁそうだった」と思う事なのだ。そのときの、川の流れの下流の方を見たときの、予想もしていなかったような、しかし同時にそれが背後に広がっているのは世界の約束として当然だとも感じられるような、そういうイメージのふいなる、突然なるあらわれのことだ。


「ちょいと原節子を描き入れることがあるんです。すると途端に画面は生き返ったように美を取り戻します。」