VHS録画より神代辰巳「赫い髪の女」(1979年)を観る。いつものことながら、神代作品の登場人物たちが挿す傘の役立たずなこと。。あれはいったい、何のために傘を挿しているのか、雨を除けるためではなく、いま自分らが、ここをふらついてますよというのを、遠くからわかってもらうために、ああして小さな傘を、高々と掲げているんじゃないのか。

雨が降れば、土方の仕事は休みになって、二人は部屋で日がな一日セックスに明け暮れる。ところで映画のはじめから終りまで、晴れの日がほとんど記憶に残らないほど、雨はあたりまえのように降る。晴れの日ならば石橋蓮司は仕事の現場で、どうせ良からぬたくらみやつまらない計画をたずさえて帰ってくるのだから、宮下順子にとって晴れの日など、ないほうが良いのかもしれないと思う。彼女は彼女で過去への思いや葛藤や屈託をかかえていて、それが石橋蓮司との関係によって解消・昇華されるなどと、信じているわけでもないだろうが、しかし彼らはただひたすらセックスに明け暮れる。その行為の意味や目的を彼らは問わない。その行為が何かを説明するための代替ではないし、何かの解決に向けた対処でもないし、厄介ごとや問題に目をつぶるための逃避ですらない。めそめそと泣いて、若い人を羨みもするけど、それもただそれだけで、私たち自身のおそらく根本的なものがすでに破産してる。あんたはあたしのアソコさえ良ければいいの?ああ女はアソコが良ければいいんじゃ、、ということになる。気に入らなければ横っ面を張り飛ばし、悲鳴をあげ、泣き、まさぐりあい悶えて喘ぐ。日活ロマンポルノは性愛シーンさえあればあとは自由に映画を作ることができたというけど、この話はふたりの登場人物の性愛が中心となって、それ以外のすべては二人の交接の行為それ自体から細い糸でひとつひとつぶらさがっているだけだ。唯一、二人の外側にあって、二人を見守ることのできるのは雨だけだ。