図書館で借りた小林信彦の小説『家の旗』より「兩國橋」を読む。以下の文章…。東京人の、これほどまでに選民的な言葉を聞いたことがない。

 電車で二時間を要するのみの八日市場へ行くのをためらうのは、浩一のなかの血のせいである。
 彼は西へ向かうのは、どこであろうと、平気であったが、隅田川の東側に関しては、向う両国(東両国)へ行くのさえ億劫に感じた。それが彼に特有の感覚でないことは、〈川向う〉という言葉が示している。〈川向う〉は田舎であり、極端にいえば東京ではなかった。こうした感覚は、一代や二代で醸成されるものではあるまい。
 彼にとって〈川向う〉とは、暗く、禍々しい土地である。……両国橋を渡ってすぐ左に、震災のときに三万数千の焼死者が出た被服廠(彼は子供のころ、これは〈火吹く所〉と書くと考えていた)跡がある。国府台の名は気違い病院と切り離せないし、下総中山の法華経寺に近い沼では溺れかかった記憶がある。それから先はもう八幡の藪知らずだった……。
 八日市場はこれらの遥か彼方である。電車では、二時間で行けるとしても---しかも銚子方面に向かうそれが新宿駅から出発しているのは彼には意外であった---相応の心づもりをしなければ、身体を動かす気にはなれなかった。

悪意や嫌味ではなく、無心で素朴な感想としての言葉だから、なおさら強烈で、いっそ清々しいほどだ。どう考えてもこれは、先入観であり偏見だけれども、しかし、そういうものなのだな、と思う。こうして人と人とは、反目し合い、目を逸らし合い、場合によっては争うのだなあと、つくづく思う。

とはいえこの主人公が生粋の東京人としての意識を誇らしげにふりかざしているわけではなくて、彼はむしろ深い屈託のうちにある。江戸時代から続く老舗の和菓子屋を、震災以降大いに発展させたのは彼の祖父で、その出身は千葉県の八日市場である。東京人と言っても、誰もが昔から東京にいたわけではない。大正八、九年頃のことを思い出しつつ「東京の下町の人間の何分の一かは、元が新潟県人じゃないでしょうか」と主人公が思いつきを口にし、それを聞いた相手が「……むかし、下町で銭湯の主人といえば、新潟か富山の者か、どっちかだった」などと返す場面があるが、これはまるきり的外れでてきとうな話というわけでもないのだろう。

東京を知るとは、この百年でかつてのそれが失われたということを知る、ということでもあるだろう。主人公にとって「家」はすでに喪われたものだが、それは戦災直後に会社再建のあらゆる手立てを放棄したかのような主人公の父親のせいでもあるし、当初から家業を継ぐ気がまったくなかった主人公のせいでもある。では入り婿でありながら八代目当主として経営者として商売を大きく発展させ得た祖父とはどんな人物だったのか。

当時の祖父を知る関係者らを主人公が訪ねて取材する箇所と、千葉から奉公人として上京した祖父が昭和十年に亡くなるまでの小説仕立ての部分が、場面を入れ替えながら進んでいく。明治、大正、昭和の各時代を示す様々な描写の、細かいディテールがたいへん面白い。

祖父が家を大きくし、そして祖父こそが家のかたちを変え人を変え、ついには町のかたちさえ変えてしまった。もちろん震災後の区画改正事業に祖父がどのように参画したのかは不明だし、あるいは自らの商売に有利になるような動きを画したかもしれないにせよ、当然ながらかれ一人が両国橋の位置を変えたわでもないし、かれ一人で靖国通りを通したわけでもない。しかし彼のようなたくさんの有象無象の「田舎者」たちが、よってたかって傍若無人に町のかたちを変えたことはたしかだ。

こうして東京はその姿を変え、そして戦争で焼け野原と化した。その後は「明るい荒廃」だけが残り、それは今もそのままだ。

ちなみにこの小説は、昭和五二年(一九七七年)刊行されたのを、自分が図書館で借りて、こんな古びた本、今どき古本屋でもあまり見かけないと思った。作者は刊行当時四十代半ばあたりか。それから四十五年も経過して自分が読んだわけだ。本の裏に昔の図書館の貸出スタンプが押してある。昭和五十二年から六十二年まで、十年のうち計十回ほど貸し出されたようで、それ以降はどうか知らない。