図書館で借りた小林信彦「小説世界のロビンソン」を読み始めたら、思った以上に面白い。第三章から七章までは夏目漱石の「猫」について、「猫」にみられる落語からの影響をメインにして書かれている。それ自体はどこかで聞いたことのある話ではあるけど、この本が何を強く言いたいのか、それは「猫」と落語との影響関係を静的に論じるような態度で語るものではなくて、ものすごく単純に端折って言うならば、「猫」の漱石が、いかに落語的な面白味を理解していたか。つまり漱石は、どれだけ「笑いがわかってる」やつだったのか?を問題にしているように自分は感じ、すごく納得させられるものがあった。

落語とは形式でもあるけど、結局は面白さ、笑いであり、それはフレーバーとかニュアンスとか何とか、言葉にすると曖昧になりがちだけど、でも「要するに笑えればいい」とか「理屈じゃなく良ければいい」とか言っててもあまり意味なくて、その面白さをなんとかつかまえるために、不器用でも何がしかのやり方で笑いの「型」をつかまえたくなる、そういうものではあるだろう。

そんな自分も落語はほぼ無知に等しい。とりあえず、アマゾンで文庫本「古典落語」のページから(購入前に…)"サンプルを読む"をクリックして、試し読み可能な「明烏」を読んだ。

なんというか、ふつうに面白く、ところどころ声を上げて笑ってしまう。この面白さというか、このなめらかさ、他人の物言いのわかってる感じと身構えを空かされる感じ、半分の驚きと半分の既知な満足感との融合の具合が、なぜこれほどまでに心地良いのかな、と思う。

落語の登場人物は、はじめから最後まできちんと役割を担っている、いきなり突拍子ない方向へ勝手に進んでいくことのない、静的なキャラクターたちで作られる物語である。「明烏」であれば、若旦那は初心で世間知らずなお坊ちゃんであることから動かず、源兵衛と多助は遊び人であることから動かない。それがわかっているからそれを土台にして、彼らのやり取りのなかに、流れの引っかかりや緩急が生まれて可笑し味が沸いてくる。それ以前に、やり取りそのものが既成の約束事の寄せ集めで出来ている。ある意味で、定型のフレーズの組み合わせで出来た音楽を聴いているのに近い。その音楽の定型さと、それを読み込む側の主観的感覚との混交に味わいがあるのだと思う。