ハーマン的「魅惑」とは、たとえば道具が壊れたときに、それまでの「感覚的性質(SQ)」のバリエーションが失われて、背後にある「実在的対象(RO)」が予感されたときのようなことを言うのだと。

たとえば「ろうそくは教師のようだ」という隠喩がある。この文の意味するところというか、このニュアンス、この感じを、他の言い方で言い換えられないということは、そこには「ろうそく」「教師」の、本質的な「実在的対象(RO)」が感じられているはずだと。これを要素に分解してしまえば、「魅惑」は生じない。だから「解体」はハーマンにとっては「リテラル化」である。(メロディの音符への分解、あるいは「アキレスと亀」を批判するベルクソンを思い出させる。)

それと没入について。没入している人物のイメージは安定しているけど、リテラリズムのそうでしかないような性質とは違って、それが(鑑賞者が絵を観たときに)、偶然にそうであることを感知し、それをじっくりと観察したくなる思いを引き出す。このとき画面内の人物も、それを描いた画家も、鑑賞者も、等しく没入の身振りを反復する。その身振りは、あらかじめ先取りされていた。時間の速度を動かし、拡張し、イメージへ没入し、絵を描くことへ没入する、それらすべてを、鑑賞しながら体験する。(マティスの非・確定的な運動のとらえ方を思い出させる。)

この状況全体が、対象と私とのあいだに共有された没入関係=演劇的関係なのだとハーマンは言うのだが、そういった圏内で起こることの絵画的な可能性を、さまざまなリアリズムとして、詳細に検討していくところに、フリードの絵画に対する取り組みの中心があるということか。

それと持続、瞬間性について。これも面白い。絵画においては、それが(鑑賞者が絵を観たときに)偶然にそうであることを鑑賞者は感じ取る。それは「鑑賞者に半ば催眠的に訴える」かのように感知される。鑑賞者の知覚や想像が、没入関係=演劇的のなかで、絵に命を吹き込み、絵を生き返らせる。同時に、たとえば肖像画であれば、その「顔」は、「鑑賞者に半ば催眠的に訴える」のではなくただちに意味を伝達する。「それは私たちに激突する」。カラヴァッジオの「トカゲに噛まれた少年」は、この二つの局面---没頭的局面と、反射的局面---が描かれているのだと。

…しかしどうも、ここでは制作する(画家)の側からの話のようで、フリードとしては、上記を体験しているのは鑑賞者ではなくて制作中の画家についてで、画家のいま描いてる内容が、状態として没頭できる局面か、分裂や反射の局面かの違いを述べているのだ。が、しかしフリード自身が鑑賞者の立場でそれを書いているわけだから、それはそれでいいのか。それはそのまま鑑賞者も感じ取るものとは言えないか。いずれにせよ、この没頭と激突(分裂や反射)は、大岩雄典による「放物線上」プロセスとして図示化される。「私が私(だったもの)に激突する」と称されたその図はすごく興味深い。これもまた可変的で可塑的な、絵画的な時間のなかで起こりうることだろうと思う。

最後に、芸術のフォーマリズムまたは美的経験の自律にまつわる「政治」問題、ならびにその都度固有の「私」を立て事後的な振り返りを可能にする装置にまつわる「私」の責任問題については、とくに前者については、自分のようなものさえある種の忸怩たる思いというか、徹底した自閉こそが最良の抵抗であると強く言いたい気持ちもあるのだが、それこそまさに「非政治的という邪悪な政治性」ではないかとの恐れもあり、浮かぬ思いだ。