点描画は、画面に描かれているイメージと、それを目で見て感じ取るイメージのあいだに、ズレがある。点描画という方法は、つまりそれ自体が主題と言える。画面に描かれているイメージが、そのまま感受されるわけではなくて、それが視覚を通して、何かと混ざりあって、ある(過去の記憶にある)何かに結びついて、はじめてイメージを確定させる、そのプロセスの提案のようなものとしてある。
点描画と、いわゆる騙し絵(トロンプ・ルイユ)の違いは、騙し絵があらかじめ「そう見える」を想定した上で画面上に仕掛けを施しているのに対して、点描画は、想定がないことにあるだろう。
いや、点描画に想定はあるじゃないか、点の集積が、遠くから眺めたときに、ある図像をあらわすことは画家の想定じゃないか、とは確かに言える。
しかし騙し絵と点描画が共に、たとえ仮にある図像を想定したうえでの営みだったとしても、点描画は騙し絵とは逆方向から描かれているとは言えるだろう。つまり騙し絵が騙す先のイメージの裏側に本当のイメージを隠しもつようには、点描画は正解たるイメージを隠し持っていない、点描画は点の集積であるがゆえに、完成されたイメージを観る者の知覚の先にゆだねていて、それに対する責任を負う態度はとらない。
この言い方だと範囲や責任の問題みたいになってしまうが、そういうことではなくて、点描画(20世紀前後の)がやろうとしたことは、たぶんそれを受け取る方法、受け取り方自体のあらたな提案だったはずだ。点々の集積がイメージを結ぶことなんて、昔から誰でも知っていたけど、それを絵画としてやったとき、絵画として受け取る情報がこれであると、この画面から受ける何かと、画面外から受ける何かの合算?が、絵画という方式のあらたな可能性ではないかという誘い掛けだったはずだ。
それは何よりもまず、ものを見て理解するときに、無意識に生じている順序感覚への批判というか、ふだん慣れ親しんでる時系列的な「知り方」への抵抗としてあらわれたのではないか。知ること、納得することとは、まず何よりも順序立てた何かの吞み込みであり、その順序性をもって、私はそれを理解したと言うのだ。
点描画が仕掛けているのは、そういった理解の順序に対する抵抗であり、それを認めなければ理解させないという決意でもあっただろう。理解、感受、感動、のシステム自体に対する刷新可能性の呼びかけであっただろう。
もちろん点描画だけでなく、十九世紀後半からの先鋭的な絵画運動は、みなそれを無意識の意識下においていただろう。