一昨日【古谷利裕 連続講座 第2回 「虚の透明性/実の透明性」を魔改造する】アーカイブを視聴した。以下内容をもとに自分なりに考えたこと。

「虚の透明性」の多彩なバリエーションというか、さまざまな事例が示され、ジャンルとしては主に建築または絵画であるけど、とくに建築における「虚の透明性」解釈の多様さが面白いと思った。

「ガルシュの住宅」「バウハウス工芸棟」に見られるのは、現実的な形態と想像的に想起される矩形面が、だまし絵とか角度によって見え方の変わる玩具のように多面的に感じられて、しかもそれら一つ一つを同時にイメージできない。重なり合わず、一個の確定的なイメージとして決着させられないことを、そのまま建物の印象として受け止めることになる。

面白いことに「プロジェクト国際連盟本部」では、建築空間内での遠近感から感じられる進行方向(奥行き)への方向性にぶつかるように、右手からの建物や木立などによる横軸からの方向性が干渉し、いわば実の奥行と虚の横軸が拮抗し合う。そんなのありかね?と思うけど、そのような敷地内に立ったのを想像したときと、ある建物の外観を見たときとに、何か不思議なまとまりのなさ、印象が確定しない曖昧さ、知覚に時間の掛かってる感じを、共通して感じることになるだろうかと思う。

また「サント・ピエトロ大聖堂の参道」とか「ルイス・カーンキンベル美術館」あるいは典型的な日本家屋にも、そのような働きは感じられるのだと。「虚の透明性」とは、別にタネが隠されているわけではないし、錯覚や錯視でもなくて、原理は見え見えなはずなのだけど、知覚はそれを落ち着いた固定イメージに落ちつけてしまうことがなく、見ることがザワザワとした時間の経過のなかに留まるような経験として感じられるものなのだ。

ただし「虚の透明性」が重要で「実の透明性」がそれに劣るというものではない。虚と実は複雑に絡み合っている、というか、そうであることによって、絵画(セザンヌ静物)であればひとつの作品としての美的資質が、その複合によって高められている。

おそらく、透明性を保ったまま幾層ものレイヤーを重ねていくことができるのと同時に、不透明で物質的に直接支持体への塗布も可能な油絵の具という画材が、「虚の透明性」と「実の透明性」とを、高い自由度で操るのにもっとも適しているのだと思う。セザンヌ静物画は大胆で強烈きわまりない、ほとんど異常な分裂とコンフリクトを湛えていながらも、うっとりさせられるような色彩間の響きと輝きをも持ち合わせている。これこそが虚と実との協働であり、それが可能であるのは油彩画の歴史に裏打ちされたメディア的なパワーゆえなのだ。

まず「虚の透明性」が示すものは、人の視覚が連続的ではないこと。【「穴(ブランク・間隙・空隙)」こそが空間のマトリクスである】。思うに「穴」とは、ふだんは忘れることが可能な何かであり、ふだん忘れている何かでもあり、ふだんはきちんと忘れなければいけない何かでもあるのだと思う。「穴」を忘れなければ、本来見るべき何かを見ることができない。しかし、けっして「穴」を忘れさせない、忘れることをかろうじて留まらせるような仕掛けが「虚の透明性」であると思う。

小津安二郎麦秋」冒頭の場面から想定される家屋全体の間取り図と、各ショット毎のカメラ位置と方向が図示されるのだが、各ショットのカメラはどの位置でも常に90度角に固定され、けっして斜めを向かない。だから家の中を動き回ってるはずの子供は、どのショットでも静止画のように画面の真ん中あたりにいるだけで、ショットごとに移り変わってるのはむしろ景色のほうだ。

このような撮影のやり方をしたら、ふつうモンタージュ不可能ではないか?空間内を人が動き回っているようには感じられないのではないか?という思いが杞憂に過ぎないのは、実際の場面を見ればわかるのだが、それは順序が逆で、違和感なく見ることの出来てしまう一連の場面が、なぜこんな不自然な方法から成り立っているのか、むしろその不可解さ、不気味さを感じ取るべきだろう。

もしこの解析結果に不気味さを感じるとしたら、おそらくそこに「穴」が見えたからだろう。しかも「穴」は、はじめから隠されているわけではないのだ。ずっと露呈されているのだ。「虚の透明性」において「穴」は、はじめから露呈されてなければならない。

(「穴」の露呈にもかかわらず、いや、だからこそ、カヴェル的に言うならそれは鑑賞者が、映画が「何かをしたいだろうということを受け取る」ということだろうか。)

そして「桂離宮 庭園」体験の詳細なレポートを見ていて思ったのは、おそらくこの庭園はテーマパークとかのように、庭園の作り手や、作家や、まして法人企業や統括組織の視点から、きっちりと管理され演出されたものではないのだろうということで、そうでなければ「虚の透明性」ではないだろうということだった。

庭園内の内側において、関係を連携させつつ展開される各景色は、一応は統合的な視点からおおまかな意図や企みに支えられてはいるのだろうけど、それは演出や計算とは違う、何かもっとぶっきらぼうというか、遠くで焦点が合えば良いというかのような鷹揚さというか、想像も含むけどそれこそ相反するものを無理矢理に併置してみた、という感じなのではないか。

「虚の透明性」は、効果ではないし技法でもなければ、演出にもなりえない。これは作者にも制御不可能な、どういう結果になるのかよくわからない、誰もが説明不能な方法なのだと思う。