昨日は乃木坂でマティス展を観てから、RYOZAN PARK 巣鴨で大岩雄典トークを聴講した。そして今朝はようやく古谷利裕 第2回「「虚の透明性/実の透明性」を魔改造する」をアーカイブで見ることができた。順次書いていきたいが、まずは昨夜のイベントについて。

まずフリードが影響されているカヴェルの芸術観といいうか、本来含有されていなければならぬ芸術の資質のようなものが興味深かった。まるで性善説のような、ある優しさというか、無根拠な世界への好意、楽天性のようなものを感じた。

カヴェルによれば、芸術作品があって鑑賞者がいるとき「絵画や彫刻やとして何かをしたいだろうということを受け取る」。それは「私たちの心を動かす。私たちは、ただそれに私たちはそれらにたた関わるだけではなく、気にかけ、ケアする。」芸術の言い分を聴き取ってしまうというのか、ついその対象を思いやってしまうというのか、そのようなニュアンスを感じる。これは、絵画や彫刻の擬人化ではなくて、いわんや作者の意図を感じ取るとかでもなくて、むしろ人間も絵画も同等に何らかの感受体のようなものなのだろう。その相互の「露呈」において、コミュニケーションが成り立つのだと。

が、だから、そんな芸術と人間との関係の原則を遵守していないのがリテラリズム的な作品(ミニマル・アート)であって、あらかじめそうであるべきものを反故にするのは、不誠実であると。

露呈しないから、世界は劇場化し、他者を登場人物にしてしまう。劇場のような関係を、他人に対して持とうとする。自分だけが暗闇に隠れて沈黙する(リテラル化する)ことが、世界を劇場のようなものに変える(自分は観客となり、相手は登場人物となる。)。

カヴェル的には、これは現実と劇場(リテラル化した現実)を用いたコミュニケーション観として語っているが、これがフリード的には、リテラリズム的な作品(ミニマル・アート)が作品としての露呈がなく不誠実であるがゆえに、鑑賞者を登場人物にしてしまうという風になる。自分は登場人物となり、相手(作品)は観客(というか自分をあらかじめ登場人物に含み込んだ劇場的なもの)となる。面白いことに、カヴェルと関係が逆転してしまうのだと。

登場人物化した鑑賞者は、暗闇の不誠実な作品らしきもの、暗闇からふいにあらわれる何かとの、(やや暗い部屋の中で)距離の取り方?その失敗?そのことに、ぎょっとさせられる。ひどく不安を煽られる…。大岩雄典は、それを「まるで舞台上の登場人物の視点から、ふと観客席の側がやや明るみ、それまで隠れていた観客の無表情に沈黙した姿がふいに見えてぎょっとするかのような経験」と記す。

ここでの「観客の無表情に沈黙した姿」とは、登場人物にさせられた観客のことだろう。「ぎょっとさせられる」のであれば、作品としての露呈はある?とも思われるが、おそらくそうではなくて、そのような状況に気づいてしまったときに、予期せぬことに登場人物化させられていた我々が、その無表情な顔を見合わせながら互いにぎょっとするということなのだろう。

(ただしリテラリズム的な作品による劇場化と登場人物化への強制に、鑑賞者はどこかで惹かれてしまう側面もあるのだろう、それを示すのが、あの一部を発光させつつ沈黙のうちにあるオブジェクトたちの姿なのだろう。)

他者の意図に自分がはめられてしまってる状態を、再現可能にしたもの。それが劇場であり、リテラル化ということか。

しかしハーマンの解釈は、鑑賞者+対象で状況がうまれる、そのときの、あたかも劇場化・リテラル化そのものであるかのような「引きずり込み」(魅惑)こそを重要と見る。ハーマン的には、鑑賞者なき芸術などありえないのだと。

他にもいろいろと、続きは明日以降にまた書きたい。