東京都現代美術館で「デイヴィッド・ホックニー展」を観る。思ったよりも昔の作品が多くて良かった。とくにダブル・ポートレートやその時代の素描・リトグラフが、モチーフとしては人物で、しかもおそらくは作家の知人とか近しい人とか関係者を対象にしているのだろうから、いわば私小説的というか、作家の日常というか、そんな日記的な意味合いにも見えてくるようだった。

それがたとえばベルエポック時代の画家のロマンティックな逸話のように、生活のために描いて売って…みたいな話を、もはや現代の我々は信じていないというか、画家であろうが何であろうが、現代の人間は経済的存在として、今やもう少しばかり複雑にしか生きられないものと思い込んでいるけど、しかしホックニーこそ、まさにそういう現役画家のひとりであるなと。こうして絵を描いて、その素描やリトグラフ一枚一枚が、きちんと買われて、それで渡世を生きてきた、まさに画家。描いて売って、生きる画家なのだな…と思った。美術史的な価値だの評価だのはもちろんだけど、まず何よりも突出した比類なき技量と才覚をもった個人としての力量、作品自体がそれに支えられているというか、いや、これなら僕だって金があれば買いたい。この絵を買いたいと思う人が世界中にたくさんいる。筆一本で…という言葉を地で行く、ほんとうに画家として売って生きることの比類なさを思った。

ことに素描の上手さは、ほとんど神業的というか、すさまじい技量であると自分には感じられて、恍惚、陶然とさせられる。もうアングルとか新古典主義とくらべても遜色ないんじゃない?とさえ思う。(それと較べる意味…)。さらにダブル・ポートレートの大作タブローたちも今回ちゃんと実物を見ると、いわゆる古典派でもなくてフォトレアリスム的なアプローチでもなくて、もっと絵画的というか、近代絵画よくわかってる感が濃厚な絵なのだなと、あらためて気づかされた。

そして、なにしろピカソ愛がすごい。おそらくピカソが心の支えというか、ピカソが制作における杖みたいな存在だったのではないか。

近年の作品群にはデジタルペインティング含めさほど見るべきものは無いように感じたが、ただし2010年の液晶モニタを複数組み合わせた映像作品だけは別で、フォト・コラージュシリーズの発展形としてよくわかるし、何よりも美しいので、魅入られてしまいその場を立ち去るのがむずかしいほどだった。イギリス地方の四季がとらえていて、かつての60年代の、フラットで季節感ゼロな西海岸時代との対比が効いてるというか、画家の過去と現在をイメージしたくなるような景色の移り変わりに感じさせる。

まずはじめに、プール(水)というモチーフが大きな発見としてあったのだと思う。水の不定形で予測不可能な運動性や形体をもって、絵画の複層性、視界の多義性が展開されようとする感じだなのだが、それが後年の風景においては、地面に広がる水溜まりとそこに映り込む景色として、それがまるで鏡と化したプールの水面であるかのようにも見え、水の波紋のうごきをイメージさせられるようでもあった。