日付絵画

竹橋の常設展示内には、河原温「日付絵画」シリーズと 「I GOT UP…」の絵葉書シリーズと「I AM STILL ALIVE…」の電報シリーズで構成された小室があって、その部屋にしばらくの間いて、作品を観ていた。

「日付絵画」は、その絵画としての禁欲的なたたずまいが、単純にうつくしいと感じられるのだが、それははどういうことか。そのように切り詰められ抑制された状態への、人間的な共感なのか、そんな説明だと、やや違和感をおぼえる。人生とか生活とかではない、もっと自然で美的な何かに対して自分は反応しているはずではないか、と思う。

「日付絵画」は、画家の観たもの、考え、その時その瞬間を、そこに保存し、何十年後か、何百年後かの人に届くように、といったモチベーションで、それらの作品が作られたわけでは、おそらくないだろう。

そこにはその時、その瞬間が、保存されているわけではない、そのような作り手の意志の産物ではないものと思われる。もちろん作品を観る側として、そこにはそれが保存されていると、思ったとしてもかまわない。どう観ようが勝手だ。好きにすればいい。

絵画と画家が、どうしても一対の関係を解消できない、これは、画家とは、絵画にとって不可避の必要悪であり、どうしても消去することの出来ない制度的な弱点だと言えるだろうか。しかしそのことから出来るだけ絵画を自由にさせてあげることは可能かもしれない。それが人間としての優しさを、何者かへ届ける身振りに近づく可能性があるならば。

「日付絵画」の、作品ごとの色彩やサイズの違いは、観る者を意外なほどうつ何かがある。違いというものが、人間である自分たちの小さな存在感を越えた場所で決められているようにも思われる。それは人の意志とはかけ離れた何かによって事後的に生まれたものに思いたくなる。やはりここにもまた、リニアな時間の流れが揺らぐような、危うい何かがある気がする。