「飾りじゃないのよ涙は」の歌詞の登場人物は泣いたことがなくて、刹那的な日常で胸のうちに波風が立つこともなくて、でも誰かがことあるごとに安っぽく感情を溢れさせることを、何か「違うと感じる」し「飾りじゃないのよ」と言いたいくらいには、涙というものに価値を見い出してはいて、いつか私にもそういう未練みたいなものが生まれて、それで私にもきっと、"かなしみ"が訪れるはずだと、きっと彼女は言っている。

これはごくシンプルに、涙の安売り批判の意図もあるだろうけど、やはり誰もがいつかは"ほかならぬこれ"を見出して、何かにつき当たって、そのことで泣くのだということを言ってる。それが一歩前進なのか、凡庸な穴に落ちたことなのかはわからないけど、とにかくこのままではない。いつかはこうでなくなると。

「私は泣いたことがない」と言われて、よくよく考えると僕は近隣者やそれなりに思いのあった誰かの死に際して、泣いたことがないと思う。死という出来事に際して、涙というものがそれこそ何か「違うと感じる」。これもまたストーリーだとして、泣くってのは無理でしょ、みたいな感じがある。

あと一週間でこの店がなくなってしまう。いつものように仕事をしているけど、そのことを思い出すたびに、思わず涙ぐんでしまう、みたいな話を聞くと、かろうじてそういう感傷なら、わからなくもないと思う。が、でも「場」に泣くことも、自分にはなさそうに思う。

それでも傾向として、自分はかなり、安っぽい涙を流すタイプだとは思う。テレビとかで煽られれば、簡単に泣く。そういう「相手の意図」は汲めるし、共感もするし、感情移入できる。人と同じ方向を歩ける。だから、もし何か「違うと感じる」と言われても、彼女には反論できない。

唯一思い出すのは小学三年か四年生のとき、飼っていた犬が死んだ。帰ってきたら、犬小屋から出て力尽きたかのように、ばたっと死んでいたのである。このときは、さすがにずいぶん泣いた。僕が死に際して泣いたことがあるのは、後にも先にも、これ一回だけではないか。