サタデー・ナイト・フィーバー

AmazonPrimeでジョン・バダムサタデー・ナイト・フィーバー」(1977年)を観る。ビー・ジーズの「ステイン・アライブ」をバックに、ジョン・トラボルタが楽しそう歩いているのは、神田駅を出てすぐの靖国通りの高架下である。それをおそらく秋葉原方面に向かって歩いている。

というのはもちろんうそ。しかしこれが、70年代後半のブルックリンか。しかし、けっこうあのあたり、または昭和通り沿いっぽいなー…と思う。マジで一瞬、そう感じさせるものがあった。

でかい音でディスコサウンドをかけて、こうして主人公を歩かせる、あるいはディスコのステージで踊らせる。その気持ちよさ、それを映画として観るよろこびは、本作で余すところなく展開されていて、なにしろジョン・トラボルタのダンスは素晴らしい。そしてやはりディスコである以上、様々な異種(人種、民族、その他)も表象されはするというか、ディスコ(ガラージュ)的な匂いが、それを避けがたく呼びこんでくる感じがある。とにかく音楽の強い魅力が、映画全編を強く支配している。映画で、踊ってる人を観るのは、ひたすら幸福だと思わせてくれる。

しかしジョン・トラボルタは、冒頭での登場シーンではいかにも気の多い感じの、街中を歩きながら好みの女が目に入ればふと近寄っていくような、ふわふわとした如何にもな若者だと思ったのに、週末になっていつものディスコでひと踊りして場内の喝采を浴びる前後で、なぜか妙にストイックな、不思議と周囲から距離をおきたがってるような妙な孤絶感をかもしだす。以降この映画は、トラボルタが今の中途半端さからどう脱け出すのかがテーマとなり、時折披露される素晴らしいダンスシーンや、仲間や恋人候補のような女性らとのやりとりを経ながらも、問題は彼自身のこれからというか、このあとの人生をどうしよう…的なところを中心に進む。

あれだけ周囲を沸かせて、尊敬され、女にもモテて、ディスコキングとか言われるくせに、彼自身はそれを大したことに思ってないのか、妙に醒めた、つれない態度をとるのだ。ディスコで踊るなんて、今だけのことさ、こんなことはいつまでもやってないさ…みたいなことを平気で言う。女にモテるためじゃないんだ、上手くなりたいだけだ、とか言ってる部活動の高校生みたいに、ひたすらコンテストに向けて練習するようなストイックさで、身近な友人らが、すごくだらしないのと好対照みたいに見えてくる。てっきり踊りだけが生きがいで何しろ踊っていられれば万事OKな人物なのだろうというこちらの予想がくつがえされてしまうのでやや面食らう。そして周囲の女性たちの扱われ方の酷さが印象的。自分が、自分自身に対して「健全」な男は、女性に対してどこか無意識で蔑視的になるものなのかなあ…と思う。

ブルックリン橋であんな風に遊ぶ馬鹿な若者が実際にいたのかどうか知らないけど、まあ昔は、いたのかもしれないなあ…と思うし、若者の暇さというか、やることのなさというか、どうにもならなさは昔も今も変わらないかもしれない…。

とも思ったけど、いやいや、昔と今の「今」は僕にとっての今なので、それも大昔ではある。こういう遊び自体が、いまはもはやありえないし、こういう遊び方や追い込まれ方も、もう無くなったのかもしれない、とも思う。