テレビをつけたら、globeの楽曲MVが連続で流れていたので、しばらく聴いていた。当時これらの歌が大ヒットしている状況が全く解せなかったのだが、二十年ぶりにじっくり聴いたらまたちょっと違って聴こえるかな?と思ったら、ぜんぜんそんなことなかった。なつかしさみたいなものもほぼ感じないし、当時の何かが新鮮にあらわれているとも思えない、とくに快でも不快でもないのだが、なんとなく気に障る、そういう感じが二十年経っても変わってない。曲にしても歌にしても、小室サウンド(小室哲哉の手による楽曲)は僕の場合、今も昔も見事にまるで理解ができない。曲はもとより歌、起用される歌手の声質に一貫したこの趣味。無理やり絞り出したような高いキーでの、あの苦しい歌い方、あの呼吸が辛くなるような感じが、良かったということなのだろうか。やたらキンキンしたその声を聴いてると、当時なぜか近くにいたちょっと鬱陶しい人の雰囲気…という感じがする。くりかえすが、嫌ではない。嫌に思えるほど強いものを感じないのだが、ただなんとなく気になるのだ。何となく騒がしいからそのドア閉めて、という感じなのだ。

夜の横浜駅の西口界隈を歩くと、若者が連なって歩いているのを見かける。このあたりは昔からそうだったけど、最近なぜかやけに多くなったというか、若者増えたな…と感じる。帷子川沿いの大通りを歩いてたら、金髪に黒ジャージみたいな、やんちゃっぽい五、六人の男女がきゃーきゃー大騒ぎしながら、歩道から車が行き交う車道へ、ふざけ合いもつれ合うようにしながら横断して、反対側の柵によじのぼって向こう側へ消えていった。とても久しぶりに、ああいう感じの集団を見たように思った。そのガチャガチャした騒がしさ、あの独特のカン高くてでかい声というものを、ずいぶん長いこと聞いてなかったような気がした。たとえば居酒屋でも、若いグループが隣にいたりすると実にうるさいことが多いけど、つまりそういうこと、若いとはそのような声量と熱意で喋ることなのだ。ほとんど内容のない、言っても言わなくてもどうでも良いような言葉だとしても、それらをとにかく連続してのべつまくなし口にする。会話というよりも応酬、高速ラリーが続くスポ―ツのような、テンポと継続の快楽、その途切れなさ、隙間のなさに自分の耳が、それを聴いているのか聴いてないのか不分明になってきて、思わずぼーっとしてくる。もしかすると学校の休み時間の喧噪が、こんな感じだったのかもしれない。

それにしても小室サウンドは自分の理解を越える。