ジャン=リュック・ゴダール・アンヌ=マリー・ミエヴィル「うまくいってる?」(1975年)を観る。印刷会社で働いていて労働組合員でもある男が、社内で働いてる従業員らの様子をカメラにおさめた記録映像を制作し、その制作途中経過を同僚の女性に相談している。テレビモニターに映される編集前の映像は、タイプライターやワードプロセッサーを前に働いている女性たちの後ろ姿とか、自分自身が立ち働いている様子とかで、男は映像の意図や映像作品の目的を女性に説明するが、女性はかなり批判的な反応しか返してくれないので、予想外の事態にやや戸惑い気味な気配だ。

その戸惑いも含めた自分の近況を手紙にしたため、男はそれを息子に送る。息子は車を運転しながら、父からの手紙を読んだことを彼女に話す。とはいえ息子もその手紙についてはあまり関心なさそうで、もともと父親に対する一般的な意味での距離感も相応に感じてはいるのだろうから、書かれた内容に対してとくに関心も示すことなくそっけない様子だ。

映像作品にダメ出しする女は、モニターの傍らで男と向かい合っているのだけど、カメラは女の後ろ姿しかとらえないので、映画を見ている我々は、最初から最後まで一度も女の顔を見ることがない。暗闇のなか、片側からの照明に照らし出されたその後ろ髪と、彼女の辛辣で醒めた声色の言葉と、困惑と怖れをたたえた表情で彼女を見つめる男の、これは只事ではないといった表情。

やがて話題は、ポルトガルで起こったクーデター事件のことやチリやスペインなど各国の情勢や混乱にまつわる報道写真、ニュース映像、新聞記事に関することへ流れ込む。それらイメージの重なりと離散が、何度も繰り返し執拗に反復される。そもそもこの映画自体が、同じ場面、同じシークエンスの二度三度のくりかえしによって成り立っている。おそらく描かれたのは、うまくいってない、ある取り組みの失敗であり挫折だが、この映画を観るとはその顛末をスムーズに観るわけではない。また男の困惑の様子を見るわけでもないし、色々と文句を並べる女が要するに何を言いたいのかでもない。

何にもまして印象的なのは、机の上で筆記具を走らせ紙に文字を書くことの、おそろしく美的に捉えられたショット。これは息子がカフェで何かを書いているときの、青緑色の液体が入ったグラス越しに動く手のショットと、父親が暗がりで真っ赤なテーブルの上の白い用紙に筆記具を走らせる、やはりこの上なくうつくしいショットによって、この二つが何らかの関係づけであるかのように示される。

書く行為は、タイプライターでキーを打つ行為に対比させられ、その(人の行為として分散的としか言えないような)行為と、にもかかわらずそれらを司り統合するものへの指摘(たぶんタイプ行為によって書くことがそのまま使役であり、収奪され搾取される対象になることへの批判)としてあらわれているのだと思うが、それにしてもここでの「筆記具で書くこと」の、素朴と言っても良いような信頼に満ちた、あまりにも美しい捉え方に驚かされるし、それこそを観るべきとも思う。

映画の最後になって、女は男の元を去り、以後二度と現れないということになる。男の挫折でもあり失恋でもあるかのような展開が示され、さらにそのことが手紙で息子に知らされ、そもそもなぜこの映画が、父親と息子の関係というもう一つの軸をもたねばならないのか、それも含めてなんとも不思議な味わいがある。