ブンミおじさんの森

シアター・イメージフォーラムアピチャッポン・ウィーラセタクンブンミおじさんの森」(2010年)を観る。思いついたアイデアをかなりギュウギュウに詰め込んでる、という印象を受けたが、ベースにあるのは、おそらく作家自身の父親にまつわる過去の記憶で、それがあのような生と死、人と人以外、過去と現在と平然と越えるような物語の下地に敷かれているのだろうと思った、というのは、アピチャッポン監督自身の簡単な自作解説が本編の前に上映されて、自身の父親もやはり腎臓病だったと語られていたことで気づかされたことなのだがそれだけでなく、この作品で扱われているフィクション的な質感にはあまり統一感がなくて、さまざまなエピソードや場面をきちんと一貫したものに繋げようという意識がわりに薄い感じがするのだが、それだけ色々なことを詰め込まなければ、日々横になって透析治療している、あるいはラオスの戦いの記憶を自らの過去として思い起こしている、その逃れがたさ、確固たる現実に固くこわばった過去の記憶を、作品にまで昇華させられなかったのではないかと。

そのうえで、亡くなったはずの奥さんが当然のごとくブンミさんの目の前にあらわれ、そのときだけの奇跡的出来事なのかと思ったら、それ以降幾日にもわたって奥さんの幽霊はブンミさんのかたわらにいる。それはあまりにも当たり前のようで、実在とか半透明とか触れうる/触れ得ないとか、そういうことがどうでもいいような当り前さとして、そこにいる。もしかすると、ここに見ている世界とは、すべてがブンミさんにとっての世界ではないか。映画は基本的に一人称視点が不可能だけど、もし無理やりやるとしたら、この映画がそのまま、ブンミさん視点で出来上がってる世界ではないだろうかと思った。この私の記憶、戦争、罪の意識、今の病気、村、国家、人々の間に伝わる過去の伝説とか神話、動物や植物たちすべてを含みこんで、そしてカメラで森の中を撮影ばかりしているうちに消息不明になり、あげく猿の妖精と一体化してしまった「息子」は、もしかしてこの映画の作り手その人自身をあらわすのではないかとも。ブンミさんにとっての「息子」とは、夜の闇の中を光る目でじっとこちらを見つめるあの者たちの仲間で、とはいえ時折帰宅することがあっても不思議ではない、そんな存在だっただろうか。

ブンミさんのお葬式を終えた義理のお姉さんたちは、ブンミさんのいない世界をまだ生きている。終盤の「分岐」を示す謎の場面、あれは、生きている者たちが、これまでの過去完了形ではない世界を生きていくということを示すのではないか、あのような示し方が出来る視点が誰のものなのか、これもやはり死者の側に立ったブンミさんの視点ではなかっただろうか。