スパイの妻

MOVIX亀有で黒沢清「スパイの妻」を観た。以下ネタバレするのでご承知ください。廃墟や洋館は出てくるが、港も船もバスの車窓の外も画面には映らない、節約と省略によってあらわされるいつもの黒沢清な世界、それとは必ずしも親和的と言えないかもしれない、ある意味で図式的かつ書き割り的とも言えるような各役者のやり取り、いかにも濱口竜介らしき脚本らしさをそこに感じた。蒼井優高橋一生といった俳優のお芝居を、じっと見つめるしか出来ないような映画だ。横から照明のあてられた顔。他人の表情を見て思うこと、そこから不安に感じたり安心したりするしかない、しかし人の心の内は、見ているだけでは決してわからないものだ。夫役の高橋一生はいかにも怪しいというか胡散臭いというか、自分は嘘がつけない人間であると言いながら、映画を観る者は誰もその言葉を信じない、そんな人間であり、そんな役を演じている、嘘つきが嘘つきの役をやってる(俳優が俳優をやってる)ような、このあたりも、如何にも濱口竜介だ。

東出昌大演じる憲兵が示すように、大時勢、状況、条件によって人は変貌する。選択を誤ることは死を意味する。そして自分がもっともおそれている、もっとも避けたいことは何なのかを問われ、突き付けられる。アドヴァンテージ無しのまま、厳しい条件下で選択を余儀なくされる。確実なことは何もない。しかし、賭けなければならない。お前は、見ていないからそう言えるのだ。俺は見てしまったから、そうせずにはいられないのだと夫が言うとき、夫と妻の経験に、絶対的な差があることが示される。しかし俺は見た、というのは夫の主張で、夫が実際にそれを見た証拠はない。いや、詳細な資料が手元にあるのだから、映像さえ残されているのだから、夫が実際にそれを見たのはたしかだ。しかしそれを見たから行動を起こさずにはいられないと夫が本当に思ったのか、それを示す根拠はない。国家機密情報を持って海外へ渡ろうとする理由は、ほんとうにそこにあるのかどうか、夫の心の中を、妻が完全に知ることはできない。にもかかわらず、妻は夫との計画を遂行するために果敢にがんばる。妻の目的は、夫とはまた別のところにある。ひたすら受け身で気の毒で、従順で忍耐強い献身的な奥さん…ということでは全然なく、この奥さんも目的のためには手段を択ばないところがあって、終始かなり怖い。思い込みの強さは夫に勝るとも劣らない。蒼井優の演技がそう思わせるのか、やけに芯の強く、まるで夫を相手取った決死のゲームに果敢に挑むかのような、決して勝負をあきらめない単独的な強さを奥に秘めた女性のようにも見える。

おそらく夫は妻を救いたいがゆえに最後で「裏切った」のだろうと思いたい。とはいえ妻にとって、それはある意味死よりも恐ろしい過酷な報いで、その苦痛こそが唯一の生きる目的になり替わるような過酷さでもあるだろう。