上野の国立西洋美術館で「ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展」を観た。最初の部屋にあった、セザンヌ夫人の頭部の、そこにある閉じ切ってない紡錘形のイメージが、他の絵も含めて会場全体をゆるく支配しているように感じられた。それが部屋を進むにつれて次第にゆっくりと薄らいでいって、さまざまなものに拡散していくという感じがした。ちなみにそのセザンヌ夫人の隣には、セザンヌ夫人を模写したジャコメッティの素描があるのだけど、ジャコメッティを観てると、この作家にとっての紡錘形とは、ジャコメッティだけの問題として個人の内側に閉じている感じだ(むしろセザンヌがジャコメッティ生成の起源にあるかもしれないという視点は意外な発見だった)。
ピカソは作品一点を見ると、その内容にぐっと入っていける感じがするときもあるけど、こうして多くの作品を観るとかえってわけがわからなくなる。とりとめがないというか、とりつくしまがないというか、しかし心惹かれるものはあって、今回ならばポスターにもなっている「緑色のマニキュアをつけたドラ・マール」は素晴らしかった。鼻から口元にかけて、ほんとうの女がそこにいるときの匂いが漂ってくるような気がした。
マティス「縄跳びをする青い裸婦」も、しばらく絵の前から離れられない。有名な"ブルー・ヌード"の本物が、実際にはどのくらいの大きさの作品なのか知らないけど、この"ブルー・ヌード"はとても大きくて、その画面全体からみなぎるものに強く惹きつけられた。
クレーは実を言うと、自分はやや苦手とする画家だったりする。その小さな手の中で大切に作られている内省的な感じに、ほんのわずかな疎ましさを感じてしまうところもあるからだ。でも今回かなりまとまった点数のクレー作品を観て、やはり面白い、すごく見応えあると思った。
常設の松方コレクションも久々に観た。それにしても、いつものことながら西洋絵画の歴史様式としてのバロックとかロマン派とかが、何百年もかけて油絵具を扱いながら連綿と絵画を作り続けていく様子には、凄さとともに、辟易とさせられるような何かがある。しかしティッツィアーノやルーベンスやドラクロワが、それぞれ個別にちゃんと良さを持っているのを確認できるだけでもこのコレクションを観ることができるのはありがたい。