暑さ

昔の映画館は夏の間、当然のことながら冷房もなかった。以下に引用した情景は大正九年ごろ、淀川長治十一歳の頃の思い出を記述したもの。

この年の八月に、神戸の錦座は日活向島作品『尼僧最後の日』と、セシル・B・デミル監督のアートクラフト(のちのパラマウント)の『男性と女性』(一九一九)の二本立て封切であった。この二作品を私は一人で二階正面の一等席で見ていたのだが、『男性と女性』のあまりの面白さに、もはや我慢しきれなく、それで、ついに一階に駆け下り錦座の事務所の部屋から私の家に電話をかけた。
「面白い、面白い、こんなん一人で見とられへんわ。みんな早ようおいで、もうあと三十分くらいで終る。それで、すんだころ来たらええ。」このようなことを電話口に出てきた母に私はいきせき切って云った。それはいったい、ひるであったか夕方であったろうか。この電話から四十分ほどたったころであろうか。どやどやと家族じゅうが錦座の二階に「一等さーん、ごあんな-い」の下足番のかけ声で上がってきた。姉二人、両親、祖母、この五人が私を映写中のくらがりの中にさがしているらしく、案内係の女が「ぼんはあそこだす。ぼんのうしろに、場とってまっせ。それ、ぼんが手ふってはります」。このとき二階の一等席は五人のすわる場所がどうやらあったらしく、また私が家に電話をかけたあと案内の女のひとに、あとから、うちのものが五人くることを知らせ、その場所をとってもらうよう頼んでおいたからでもあった。
 錦座はもう毎週ゆくので、この錦座の誰もが私たちをよく知っているのであった。みながぞろぞろと来たころは『男性と女性』が終り、実写(ニュース)が始まっていたときだった。そしてその実写が終り場内があかるくなって、はじめてみんなは私と顔を合せ、いかにも嬉しげに笑い合った。誰ひとり、勝手にひとりで見に行ったりしてと、私を𠮟りつける者はいなかった。
 私はそれですでに見た『尼僧最後の日』からまた見ることにした。小学生の私がひるまから映画を見ていたのは、このときが八月だったので学校は夏休みだったのであろう。
 このころはまだ冷房どころか扇風機も場内には用意されていない。二階の手すりから首を伸ばし、一階ひらどまの三等席を見下ろすと観客は中央と両はじの通路にまでぎっしりつまり、その熱気が二階にまでのぼってくる。
 『男性と女性』を二階の一等でひとりで見たのも、このような映画を一階の三等では見たくなかったからである。しかしひとりでゆくときはたいがい三等だったので、真夏の映画館の三等のひどさはよく知っていた。それは風呂からあがったまま汗もふかないで「ゆかた」(傍点)を着ているというべきか。
 ところでこのころの錦座の一等席(もちろん畳敷きにざぶとんの席)は、夏になると二階正面の天井と二階うしろの椅子席の特等の天井にぶの厚い白布のカーテンが「たて」(傍点)に何枚も間隔をおいて横にならんで吊るされて、これを数本のロープで結び、この五枚六枚の白布をロープでつないだ数本のロープを右はしで一本にまとめその一本を下のほうまで伸ばして、映写中ずっと案内の女の係が交替でそのロープを上下に曳いては上げ、曳いては上げて、これが天井に吊るしたすべての白布をサワサワとゆらめかし、白布の下の見物席に音を立てぬさわやかな風を送るのであった。
 さらに案内の女を手まねで招き小声で飲みものをたのむと、サイダー、ラムネ、かき氷、これらをしばらくすると持ってきてくれる。いちごや宇治や氷あずきをスプーンでしゃぶしゃぶかきまぜ、それをそっと口に運びながらの映画見物はいかにも楽しかった。
(淀川長治自伝〈上〉115頁)