セクハラ

セクハラで訴えられた。自分の愚かさを笑いたくなる。償いよりも、まず真っ先に自分を罰して粉々にしたい。

これから自分は、身の回りにある多くのものを失い、身内を悲しませ、関係者を怒らせ呆れさせ、多数の罵倒や嘲笑にさらされ、石もて追われ、法のもとに処罰を受けることだろう。

いま、そのことの実感は、あまり湧かない。ただ堅牢で透明なかなしみがある。もはや自分に残されたものは、このかなしみだけだと思う。だからこのかなしみごと、自分を消してしまいたい。

それまでの私が、どれだけ幸福だったか、今となっては夢のように感じられる。なぜ私は、間違ったのか。何を根拠に、それまで楽観的でいられたのか。

訴えられた内容について、今の私はそれを認める。とても嫌だった、暴力に傷ついたと、相手がそう言うのなら、それが事実だろう。しかし、だったら何をもって私は、相手を理解して、信じれば良かったのか。私が、私と相手を信じる根拠は、どこにあったのか。

とはいえ、とにかく私は悟った。もう性愛というものに、触れてはいけない。金輪際、思い浮かべることすらしない。何も信じることなく、それら一切と無関係に生きようと思う。

恋愛経験も乏しくて、人としても未成熟で、すべてにおいて劣等だから、そういう浅はかな行動に出て、それに嵌って、暴力で相手を傷つけて、何もかも破産させた挙句に、自己弁護の言い訳じみた台詞を云う、お前のやってることはそれだと、嘲笑する声が聞こえる。なるほど私以外の、世間一般の「通常の男性」は、物事を信じて相手と共有できる、それが可能であることの根拠を、よくわかっているらしい。あるいは根拠なんか、必要ないということかもしれない。

ところで恋愛なら、かつての私だってした。過去の私だって、誰もがそうであるように若かったのだ。あのとき私は、相手を愛したし、きっと相手も私を愛した。たしかにそのときは、疑問ももたず根拠も求めなかった。

愛なんていう言葉を、生まれてはじめて使った。あえて使ってみたのだ。こんな用法で良いのか心許なくて、歯の浮くような、虫唾の走るような、いやな気まずさを、ひらき直って受け入れたかったのだ、。若い愚劣さと凡庸さをしめす言葉の表現として、世間のあなたがたが至極当たり前だと思ってるように、ばかばかしいほど無根拠な関係を相手ともったことなら、むかしの自分もあるよ、ということを言いたくてそうしたのだ。

もともと根拠なんかないのだ。今回の件だってそうだ。お互いにいい歳をした男女だ。もう分別のついた大人だ。だからこそ、ややこしい言葉が必要になるのだ。

恋愛ではなかったとしても、疑似恋愛ではあっただろう。お互いに別々の方向を見ながら、かつて味わった感触をなつかしみ、お互いを利用して思い出そうとするようなひとときではあっただろう。共犯関係みたいにして、お互いの打算を、それぞれ慈しみ合うというか、かばい合うようなものだったろう。ある程度まで進んで、でも取り返しのつかないことになる何歩も手前で、二人共に落ち着いた態度で、安全地帯を少し越えても、あわてて柵内に戻るみたいに、いつでも元の位置に引き下がることだって、互いに想定していただろう。今、この二人ならば、それが可能だと、そんな信頼関係をたしかめあう時間でもあっただろう。

ただ、少なくとも私は、あなたのことを考えた。そしてあなたが、私のことをどう考えたのかはわからない。わからないことがむしろ私たちを支えた。そして、性愛の関係が結ばれる。若い頃であれば、当たり前だった。若い頃であれば当たり前だったことが、若さをうしなうと、当たり前ではなくなる。

やはりわからないな。なぜあれが、成立してなかったと言えるのか。私がおじさんだからかな。そうだとしたら、とても寂しい。私にとっては、真剣な恋愛だったのだけどな。

きっと私ははじめから、とても嫌われていたのだな。相手からすれば、私のことなど、特別でも何でもない、ただのワンオブゼムだったのだな。信じられないことだけど、私の見ているものと、相手の見ているものは、同じようでいて、まったく違ったのだな。

これでようやく、骨身にしみてよくわかった。セクハラおじさんの心を、我が身のごとく想像できるようになった。

いや、我が身だった。冗談を言ってる場合じゃない。

それまでセクハラなんて、私の理解を越えた、別次元の話と思っていた。しかし今はわかる。この私のすべてが、セクハラだ。存在がセクハラ。若返ることのないかぎり、絶やすことのできないもの。

たぶん年を取ったからだ。年をとってわかることの、それも一つなのだ。

いや、ほんとうにわかってるのかな。……私はべつに、いままでと何も変わってない気がするのだけど。