昨日見た「チャレンジャーズ」では、その中心にあるのがテニスであり、主要人物らはその魅惑からけっして自由ではない、それをただちに感じて、ただそれは映画からそう感じさせられたというより、たぶんそこからの連想として、どうしたって村上龍の小説「テニスボーイの憂鬱」を思い浮かべざるを得ないように思ったからだった。

この映画はもしや「テニスボーイの憂鬱」の40年ぶりの新解釈ではないのか、あるいは遠い場所からやってきた「テニスボーイの憂鬱」批評なのではないかと、そんな思いが頭の片隅にちらついて離れなかった。

言うまでもなく「テニスボーイの憂鬱」と「チャレンジャーズ」は、話として全く似たところはない。重なるのは主要人物がテニスに魅了されていて、彼らの生がその影響下から逃れられないということだけだ。

しかしその点だけでも重なるならば、いかなる物語であれ「テニスボーイの憂鬱」の系譜にあると言えなくもない。「テニスボーイの憂鬱」こそは、テニスだけがこの世界において唯一、素晴らしくて美しくて正しくておそるべきものであることを真っ直ぐにうたい上げる、それを至上目的とする作品にほかならないからだ。

もちろん「テニスボーイの憂鬱」の核は、かならず何事かに依存し転移せずには生きていかれない者の在り様であり、それはメルセデス・ベンツだったり女性だったり酒だったりするのだけど、たとえば世界的な大富豪が、死ぬほど退屈な人生に何をもって耐えているかと言えば、それは宗教と麻薬と、あと一つがテニスであると、そんな調子でテニスだけがここでは別格の扱いを受けて、神聖にして冒すべからずな審級に祀られているのだ。

「テニスボーイの憂鬱」を読むと、これはさすがにあんまりだと呆れかえり、笑わずにはいられない箇所も少なくないのだが、そうでありながらも、主人公が熱っぽくテニスへの愛を説き、一流選手のプレイを思い描きし、彼らによる箴言をこころの中でくりかえすとき、その言葉に世界の一部が見事に切り取られたかのような迫力を感じるのもまた確かなのだ。笑うしかない箇所と突き詰め切った箇所が平然と混在していること自体が、もはや途方もない。それはたぶん、書き手が本気で何物かにとりつかれ、それがすべてだと信じているからだろう。

(村上龍的な飽きっぽさで、その信仰がほどなくしてまた別の対象へ移り変わるとしても…)

(「テニスボーイの憂鬱」じつはまだ読了してない。あと100ページくらいあるのか。これを機に最後まで行くか…)