ウィズ・ザ・ビートルズ

村上春樹「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」への保坂和志による批判について13日の三宅さんが書いてることは、自分がちょうど一年ほど前に聴講した「小説的思考塾」で語られたことだと思うのだけど(他の何かの媒体にも書かれていたのかもしれないが)、そのとき自分が書いたまとめ(https://ryo-ta.hatenadiary.com/entry/2019/12/21/000000)が大雑把すぎる感じがしたので、少し補足しておきたい気になった。ここでの話は歴史的な正当性とか整合性をきちんとしろという事ではなくて、たぶん「物語」を優先するために切り捨てたものと、それを許容した態度が批判されたのだと思う。

【「With the Beatles」のLPレコードを抱えて廊下を歩いている女子高生】という一文それ自体がイメージであり物語で、これを読んだ人は「60年代、当時の感性、周囲からはやや浮いてるかも、自分の嗜好をもつ女子、美しくてミステリアス…」みたいな、そんな感じを思い浮かべるだろうか。それはそれで良いのだが、しかし、そこにハーフシャドウの四人がジャケットになってる英国オリジナル盤という、少なくとも当時国内にはほぼ存在しないはずのアイテムによって補強が入る。そのイメージはむしろ、当時ではなくて現代だからこそ想像可能なもので、現代から見たステロタイプな60年代イメージに乗っかったものでしかない。つまり書き手が(虚構であれ現実であれ)「その場面」を本気で信じてなくて、今流通してるものに無自覚なまま、何となくの雰囲気で書いてるだけでしょ?という批判内容に自分は解釈したと、そのことは参考までに記しておきたい。

で、じつは村上春樹「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」をこのたびはじめて読んだのだが、おどろいたのは【「With the Beatles」のLPレコードを抱えて廊下を歩いている女子高生】を、語り手自身が「とても美しい」と、おそろしく直接的に説明してくれていることだった。「名も知らない美しい少女」だなんて、今や村上春樹以外の誰にそんな形容を使うことが可能だろうか。

そしてこの女子高生はかなりの度合で、語り手にとっての妄想の産物というか、現在から振り返られた過去のうつくしき幻想、"失われた夢"みたいなものに近い雰囲気もたたえているし、国語の教科書の設問というかたちを使って、小説において何かが何かの象徴を担うようなとらえ方に対する批判というか皮肉っぽいテイストが小説内に配置されてもいた。それを深読みすれば、べつにここには、何もないのだ、これは、ただこれというだけで、事実としての過去だの現在だの、イメージだの象徴だの、そんなのは問題じゃないのだ、という意味合いを引き出すこともできるのかもしれない、そう思わせる余地もある。

なにしろ部分を細かく批判することにもはやほとんど意味がないと思えるほど、全体がスポンジみたいにふわふわしていて、最後までその調子で終わるという印象だ。村上春樹、久々に読んだけど、すでに盤石というか、相変わらず何も変わってない…と思わされた。

 なつかしい昔、素敵な女の子、美味しいビール、うつくしい音楽…かつて経験した、そして今、自らが書こうとする「それ」を、本気では信じてない、書くことが出来るとは思ってない。そういうニヒリズムが根底にあって、それにある種の共感が寄せ集まるということであろうか。書かれたことというよりも、そのような書かれ方というか、メタ的な「書かれたこと」に対しての態度、それもある種の倫理性とは言えるのだろうか。