幸田文「おとうと」を先日読み終えたのだが、久々に読んだ幸田文は、以前ほどには自分に迫ってこない感じだった。幸田文的マゾヒズムというか「生」の受動体は、やはり父親と相対したときに、もっともきれいに光るのかなあ…などと自分勝手なことを考えたりもした。
全体は、おとうと碧郎が不良化する様子にそれを見やる姉のげんと、結核患者になった碧郎と病院に付き添うげんで、ざっくりと二つに分かれたような構成で、小説的にたくみに構成されてるとかの印象ではない。思い出されることひとつひとつを丹念に驚くべき精度で描きだしてあるのはこれまで通りに幸田文的だ。前半だと不良化してくる碧郎の言葉や態度や調子の変わり方とか、乗り合い電車に無理やり乗り込む様子とか、あと二人でボートに乗る場面など見事で忘れがたい。きっと、ほんとうにこうだったのだなと思う。
また当時の結核という病気の怖さをあらためて思い知らされるところがある。ある日突然不調が出て、診断の結果病名が告知されてショックを受けるというのは、今の病気でもそうだけど、結核の場合、治療はとにかく安静にすること、身体をいたわることだけが最重要で最優先で、治りたければ動くな、治りたければほとんど死んだも同然の態度でいろ、ということになる。それは若者にとってはあまりにも酷だ。そうして若さゆえに、それができないというところに、昔の結核という病気への独特な意味合いが重なるところもあるのだろう。
(というか、安静にしていれば必ず助かるというわけでもなくて、助かる人は助かるし、そうでない人はそうでない。そこに理由はない、ぎりぎりの「確率の手触り」に触れ掛けてる…ということだろう。)
当時の病院で、結核患者の死を看取るまでの時間というのも、当然もはや今の病院にそのような時間は流れてはいないはずで、担当医の碧郎にかける言葉、24時間付きっきりのスタッフや家族たち。椅子に腰かけてがっくりとうなだれて眠る看護婦。食事係の職員らの個別患者に対する特別な心遣いと計らい。それらを昔の話だからという理由で、無責任な我々読者は手放しでそれを読んで楽しんでしまえるものだ。そういう無責任な楽しみ方を、昔の小説は許容してくれる気がして、以前から自分はそれを好むのだな、とも思う。
以下の箇所など、いかにも幸田文的だ。奉仕の型式、練熟の度合そのものが私をつくる、それ無くして私など存在しない(その意味で言えば、私とは物質でも生物でもない何かである、私は使われることではじめて存在する。まるで道具のように)。
結核の看病というしごとの真底がわかった気もした。兄弟も親子も夫婦も親友も医師も、すべて何等かのテストを通過してからでなくては病人に許されないのだと思う。そのテストはその人にもより、その病気の軽重や病生活の長短にもよるようである。軽症で退屈ならその退屈でテストされ、もっと重症でしかも金の心配もあれば、金と病気とでテストされ、生死の域にまで来ているものなら生死でテストされ、碧郎の場合は、伝染という恐ろしい幕を楯に取ってげんをたしなめたのである。
(唐突に関係ない話になるが、今更ながら、亡父は、自分を「テスト」しなかったなあ…と思う。すでにあきらめていたのか、、いずれにせよ悪いことをした。その報いはこれからの自分が、身をもって受けるような気もしている…。)
ちなみに文庫本解説の篠田一士や「幸田文のマッチ箱」の村松友視が、共に同じ箇所を引用しているほど、本作は冒頭の風景描写が見事で、それは以下に引用した一段落だが、これは自分もたしかにと思う。しかしこれを「わかる」と感じることのできる人も、時代が変わる(風景が変貌する)ことで、じょじょに少なくなるのだろうか。というか、むしろなぜ自分はそれを「わかる」と思えるのかがわからない。
太い川がながれている。川に沿って葉桜の土手が長く道をのべている。こまかい雨が川面にも桜の葉にも土手の砂利にも音なく降りかかっている。ときどき川のほうから微かに風を吹きあげてくるので、雨と葉っぱは煽られて斜になるが、すぐ又まっすぐになる。ずっと見通す土手には点々と傘・洋傘が続いて、みな向うむきに行く。朝はまだ早く、通学の学生と勤め人が村から町へ向けて出かけて行くのである。
風景描写の巧みさとは、その風景の高度な再現力(あるある的事物の提示)ではなく、要素の配置とか、順序とか、速度とかの調節の具合によるのだろうか。それが高度に調整されることで、読む我々は、現実の風景の変貌(の記憶)に左右されることなく、私固有の風景を、記憶から呼び起こされてしまう、その力こそを描写力と呼ぶのだろうか。
(風景の変貌なんて言っても、数百年前に描かれた風景画も今の風景もさほど変わらない。事物の変わらなさと、見方の変わらなさ、記憶の残り方の変わらなさ。)