読み手

僕の20日と21日の文章をもとに、三宅さんが自作について丁寧に語ってくれていて、三宅さんの緻密極まりない分析が、自分の感じた疑問や不明に対して、見事なガイドの方向性を与えてくれた感じだ。(「異なる人種の顔だちを見馴れていないまなざしにとっては」という箇所の意味、それに気づかなかった自分の読みの精度浅!と思った…すいません…。)それにしても三宅さんの自作に対する客観的な距離の取り方、書き手でありながら冷徹な読者でもある制御の力はすごい。クレバーきわまりない。

あらためて感じたのは、自分は小説をきわめて古風に(と言って良いのかわからないが)、いわば最初の時点で登場人物にしっかりと感情移入しようとして読んでいるのだな、ということだ。小説の冒頭に誰かが出てくるならば、まずはその人を信用するところからはじまり、彼の見るものをつぶさに確認し、彼のリズム感や呼吸や認識の癖を自分なりにシミュレートするところからはじめることになる。それは彼を知るだけでなく、彼と彼を取り巻く場を知ることでもあり、その場の持続性すなわち歴史をおぼろげに想像することでもある。もし彼が世界=歴史から疎外されているような特異な非・主体であるならば、そのような人物として認識する努力をするが、小説の世界が、そんな彼の認識=身体を通じてでしかあらわれないはずだと思っている自分のような読み手にとっては、作品中で起こる運動もまた、非・主体である彼自身のように感じざるをえないのかもしれない。「特攻への退路断ちを脱出機会の発見に読み替えるところや、竪穴同士が横に繋がりはじめた景観が故郷の水路のイメージに重なるところなどはあまり成功していると思えず」と感じた理由も、おそらくそこにあるのかもしれないと思った。そして最後に、赤犬の生贄とクライマックスで、不完全な主体が、まがりなりにも自分自身の生をはじめようとしている展開には、やはり僕はこころうたれるわけです。