小林信彦の短編「息をひそめて」(初出1979年)を読む。時は1950年代、大学を出たけれど就職難に苦しむ主人公は、母親の伝手から叔父の会社で働くことになる。会社と言っても従業員は叔父と叔父の愛人である清宮さんとその長男で、しかも長男はすぐに辞めてしまう。

会社で叔父から使われる身となった主人公は、感情任せで気分屋で、思いつきに夢中になって上機嫌かと思えば些細な一言ですぐ不機嫌になって怒鳴り散らす叔父に、早々に辟易し心底うんざりし、早くこの場を去りたいと思いながらも、仕方なく外回り営業の日々に明け暮れてる。

叔父の会社が扱う商品はきわめて怪しい、外国製の塗料だの樹脂液だのを成分分析して、似たものを安価で製造し安価で売る。特許を無視しているので大っぴらにはできず地を這うようなやり方で商売を続けている。叔父の「経営戦略」はきわめてあてずっぽうというか一貫性がないというか非論理的というか、本人の意志や欲望の根本を感じ取るのが主人公には難しいものに思える。

叔父は主人公からもっとも遠い、もっとも理解できない、同じ人間とは思えないほど、距離や断絶を感じさせる人物である。そのような人物の下で、安月給な待遇で命令や指示を受けて、希望も未来の展望もないままにかろうじて生活を維持してるだけで、日々の雑役に時間を費消すること。これは生活としてはきわめて過酷で、ストレスと不満ばかりで歓びも希望も無い、想像するのもおぞましいような事態だろう。しかしこのような毎日を送り暮らしている人は、今も昔も、この世界に数多く存在していることだろう。

この小説が目指しているのは、そんな過酷な境遇におかれた主人公の内面や思いを描くことだろうけれども、同時にこの叔父という存在の醜悪さ、子供じみた自己顕示欲と虚栄心、嘘や誤魔化しで曖昧で適当に面倒事をやり過ごす人並みな処世術、その凡庸さ、だれもが思い当たる弱さ、それら一つ一つの具現化でもあるだろう。そしてそれを、あたかもひとつの謎のように、なぜそのような存在が可能なのか、その根拠や意欲が相手のどこに担保されているのかを本気で訝しく思う、それを考えずにはいられないような、異なる人間に対する根本的な違和感、その物質的とも言って良いような不気味な感触でもあるだろう。

厭らしさや、醜さというものがあり、それへの嫌悪感や忌避感、悲嘆や諦念の思いというものがあり、しかしそれら一つ一つが、何か単独でぶっきらぼうに、結局は何にも関係付けられずゴロンと置きっぱなしになってる。そのこと自体が物質的必然のようにこの小説の世界では認識されていると言って良いのではないか。

「あとがき」での作者は、この作品を「上質のユーモアがある」と評した言葉に対して、これは最高のホメ言葉に感じられると書いているのだが、もしここに思わず笑いを催すような要素があるとしたら、それはネガティブさそれ自体への取り扱い方、突き放し方から醸し出される何かによってではないだろうか。