巣鴨(5回目)

保坂和志 小説的思考塾Vol.5の会場の巣鴨へ。終了後、北千住で夕食して帰宅。

 

もうこれからは、ひたすらどこまでも、とにかく前向きに、今よりもずっと面白くないと、僕も今後はますますダメだな…などと考えていた。どこまでも独自に、どこまでも自分が周りのすべてに魅了され続けて、自分自身にも魅了され続けるような状態でいなければ。少なくとも、そうでなければ私もあなたも楽しくはない。保坂和志の場合「それなら猫はどうなのか?」が必ず先に来る。この時点で狭い人間関係的な考察スコープが最初から範疇外になり、猫たちや犬たち、あるいは無人の海辺の波打ち際に寄せる波のようなものが世界を把握するベースになり、人間的な意味での死も大した意味を担わなくなる。全身麻酔で気絶したあの感じが死なのだとすれば、ただの無でしかなくて、まるで恐れる対象とは思えないという話があったけど、それはわかる気はするが、それでももしその直前に意識があったら、ある種の懐かしさというか、最後の感傷が入る余地はあるだろうか、あるとすればそれは映画か、去年亡くなった父も最期に目の中で映画を観ただろうか。僕も深夜の、あるいは早朝の、人間がまったく存在しない海辺の波打ち際に寄せる波を想像したとき、それに魅了されるところはある。が、いずれにせよまだ生きる時間があるので、とにかく何しろ今よりもずっと面白くないと、このまま行くともっともっとつまらなくなってしまう可能性がある。つまらなくなるとは死んでしまうというか死んでしまうことへの抵抗が無くなるということで、面白くなるというのは死に対して抵抗可能だということになる。

夏休み

最近なんとなく思い浮かべたこと。人間の一生は夏休みのようだ。長いような短いような限定された時間のなかで、基本的には楽しくて、たまに楽しくないこともあり、思った以上にもてあまして退屈な時間もあり、夢中になったり、たそがれたりもするが、しかしやるべき宿題らしきものが、わりと最後の方まで手付かずで残っていて、それが気掛かりでもある。そろそろやらないといけないのはわかってるのだけれども、どうもやる気がしない。別にやらなくてもいいとも思うし、でもやった方がいいとも思う。どうせ最後の残り何日かで、あわててやるんじゃないかという気もする。それでぜんぜん間に合わなくて、でもまあ僕ならこんなもんだろうと半ばあきらめてしまうような気もする。でも夏休みは楽しかったし、また早く次の夏休みが来ないかなあとは思っている。

新しい領土

今週は橋本治の「恋愛論」を読み返していて、これで何度目なのかわからないが、しかしこの本は今更ながら傑作すぎるというか、すべての行に重要ラインを引きたくなってしまう。おそらく昨日書いた、“男と女がそのまま恋愛することはおそらくもう無理なのだ。”というのは以下を読んで、そう思ったのだ。

 

俺が本読むの嫌いって話はアチコチでしてて、そんなこと、俺の中学高校時代がこうまでアカラサマになった以上もう分かるだろうけど、本なんか読んでる暇ないんだよ。ジッとしてるの嫌いだしサ、胸の中には“恋”っていう最大の娯楽があるしサ、それがあれば二時間や三時間、平気でぼんやりしてられるしね。だからサ、推理小説でもなんでも、本ていうのを一冊読むのには、少なくとも一週間はかかる訳。ヘタすりゃ一ヶ月もかかるけど。ともかく読むのかったるいからサ、途中まで来て、最後の結論読んじゃうの。推理小説なんて、犯人が誰か分かってからじゃないと安心して読めないっていう困った人だったんだけど、その、一足飛びに結論に行っちゃうのってのが僕ね。一人でいる時は、もう、平気で現実見失っちゃうんだ。そんで、彼と会うと、彼は必ず違う種類の現実ってものを持って待ってんだよね。「あン!僕の待ってた現実と違う!」って必ずすねるんだけどサ、結局彼が、なんらかの形で、僕のこと待っててくれるっていうのは、最早、時が経ってくれば確かな訳。そういう、“現実”の前では、一切の妄想っていうのが力を失っちゃうんだよね。

 

僕はもうやっぱり、初めて「どうしよう……好きになっちゃった……」てなった時から、「これは通るものではない」ってことを知ってるから、「どうすれば通るか」ってことだけを、ホントにもう、常に考えてんの。僕の持ってる感情と、彼の持ってる現実ってのは、どのようにどのようにすればスムースに噛み合うのかっていうのがあるから、もうホントに、ちょっとずつちょっとずつ、ある筈のない恋愛ってのを作り出してて、そのたんびに、自分の妄想ってのを捨てて行ってるのね。

 

「あ、こういう現実も素敵。こういう現実がもっとアッチの方に伸びて行ったら・・・」って考えながらも、「伸びようと伸びまいと、でも今僕、とっても幸福だからいい」って、そういうことしか考えてないの。

 

俺の最大の愚かしさってことを考えたら、それはもう、自分が幸福であるっていうそのことを、あまりにも軽く見過ぎていたっていう、そのことだけね。今となってははっきり分かるけど、自分の妄想を完成させることが恋愛を生きることじゃ、決してないのね。前の方で言ったけど、恋愛って、やっぱりキチンと終わるもんなんだよね。それは、「君が世界で一番好きだよ」っていう言葉で終わるのかどうかは、残念ながら今のところ、分からない、僕はそういう終わり方をしたことがないから。

 

ただし、もうはっきりと分かるっていうことは、恋愛っていうのは、自分ていう海の中の離れ小島と“陸地”っていうものの間を、妄想というものをドンドン捨てて行って埋め立てていくことによってつなぎとめる作業だと思うの。妄想がドンドン捨てられて行くから、恋っていうのは、ちゃんと終わるんだよね。そして、その埋め立てられて、ちょっとずつ陸地が現われて来る、その状態のことを“幸福”って呼ぶんだよね。

 

僕は今、“幸福”って言葉は頬ずりしたいくらいに好きね。なんでこんなこと唐突に言うかっていうと、実は僕、自分のことあんまり幸福だとは思ってなかったの。自分じゃ幸福だってことは分かってても、それは、大人の目から見りゃ大したことない中途半端なもので、ホントにつまんないもんばっかりかき集めてるんじゃないかって、そう思ってたの。大人の目から見りゃ「つまんない」どころの騒ぎじゃなくて「気色悪い」とか「異常」とかいうようなもんだろうしサってのも勿論あるし。でもサ、僕サ、こないだね、よく考えたら、“大人の世界”っていうのはホントにつまんないもんなんだって、そう思っちゃったの。分かっちゃったっていう方が正解かもしれない。なんか、大事なもん抜かして、抜かしたその上にベッドが一台あって、その宙に浮いたベッドをすべての基盤にしてものを考えるのが大人の世界なんじゃないかって、そう思っちゃったのね。「なんて貧しいんだろ」っと思っちゃって。もしもお金の量を計る基本単位が“幸福”ってモノサシだったら、俺、ひょっとして世界で一番の金持なのかもしれない、とかね。

 

“自分”ていう離れ小島がポツンてあってサ、その周りを膨大に海がとりまいててサ、それを埋め立ててって、遠い、“陸地”と地続きにしちゃっていって、その“陸地”ってなんだろうって言ったら、“現実”だっていう答が簡単に出て来るかもしれないけど、じゃア、その“現実”ってなんなのサ?って考えたら、それはなんだか、分かったようで分かんないような話だなってことも思うのね。恋愛が結婚に続いてくって考えでいけば、その離れ小島と地続きになる陸地は“結婚”でしょうよっていうのもあるけど、僕の場合は、実は違うのね。これから先はどうか分かんないけど、今までのところで行けば、離れ小島と地続きになって行く陸地っていうのは、実は“自分”なのね。

 

妄想みたいなもの全部“海”に捨ててーーそれは結局、捨てさせてくれるような人間達が現実にいたからだってことだけどサ、そうやってって、結局、過去の自分ていうものが一番安易に考えてた未来とは、全く別の、そしてもっともっとずーっと明確な現実っていうのが、実は、現われてくんのね。

 

一歩一歩、知らない間に埋め立てられてって姿を表わした陸地の上に立って、そしてそれでその先を眺めて見ると、それはもう、前とは全然違った基準に立って物事を考えるのとおんなじなんだよね。それはホントにちょっとずつだし、何がどう変わっていくのかもホントのところはよく分からないけども、でもやっぱり、それは妄想の中にいる自分の考えてた未来っていうのとは、やっぱり全然違うものなのね。考えてるようでいて実は、妄想という名の離れ小島の中にいる時人間は、「自分の未来なんかなんにも考えてなかったんだ」って、そのことだけは分かんないでいるの。いくらそれがどうにもならないことでつらいからって、泣いたり喚いたりしたって、妄想の中で考えてる“その先”っていうものは、実は、一番安易でいい加減なものなのね。そんなもの分かってるくせに、でも、それを考えてる自分のいい加減さを認めるのがいやさに、妄想っていうものを強固にしてくのが、大人の世界の恋愛なのね。だから、恋愛っていうものは、完成させちゃったら、大人の世界では終りなんだ。

 

“幸福感”ていう、実に錯覚の多い、妄想のレンガを積み上げてサ、それで立派な“恋愛”なり“結婚”なりを作り上げようとしたってサ、その行き着く先は、そこに閉じこめられるっていう、それだけなのね。“恋愛感情”っていう、妄想の元になるようなものを外気にさらして、そのことによって生まれる現実と、海の中に消えてく妄想とを振り分けて、そうやって、ほとんどなんの意味もないような“幸福”っていう新しい領土を踏みしめていくことの方が、恋愛っていう立派な妄想の中に閉じこめられることよりもなんぼか幸福かって思うの。

 

橋下治「恋愛論

 

 

カップル

もう十年以上前だけど、真夜中の新木場のクラブの広いフロアで、深夜二時くらいだったと思うけど、はっきりゲイのカップルとわかる二人が、ぐっと近くで互いに向かい合って、もうこれ以上の幸せはありえないというくらいの、最高の笑顔を向け合って、身体全体からよろこびをほとばしらせるかのように、むちゃくちゃ楽しそうに踊っている姿がふっと視界に入ってきて、それがすごく印象的だったので踊り続ける二人をしばらく見ていた。今思い返しても二人のことが、とても鮮やかに記憶によみがえってくる。たぶん十年かけてかなり美化された記憶になってしまっているとは思うが、あの二人のことを思い出すたびに、いまだにかすかな幸福感が沸くというか、よろこびと切ない悲しみのようなもののないまぜになった感情が満ちてくる。

 

昨日観た「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」でエマ・ストーンが美容師の女性に魅了されていく場面で、その二人のことをまた思い出したりもした。僕がヘテロ男性だからかもしれないが、ゲイやレズビアンの恋愛というのが、僕にとってある意味とても魅力的に見えてしまうのはなぜかと言ったら、それはやはり彼ら彼女らが、自らの気持ちを互いに認めながら、自分たちと自分以外の世界を、何にも頼ることなく、まったくのゼロから作り上げているように見えるからだろうと思う。この想像は、男と女の恋愛を見てもそれと同様に感じることが、もはやきわめて困難だろうという思いとセットになってある。

 

男と女がそのまま恋愛することはおそらくもう無理なのだ。それは恋愛のようでいて実際は制度でしかない。それは神社にお参りするようなことと変わらない。儀式であり決まりに過ぎない。そのことを認めないわけにはいかない。だったら、ゲイやレズビアンだってそうではないか?同じことではないか?そうかもしれないが、しかしまだ彼ら彼女らの方が、世界に対してよりクリエイティブでいることを求められるだろうし、自らもそうであろうとするだろう。闘争を続ける気概を失わないと同時に、あたらしいものに触れるよろこびのアンテナを最大限にすることにも躊躇がないだろうと思う。それが、ひたすら羨ましい、いや羨ましい以前に、とても眩しくて、ずっとあこがれの思いで見ていたくなる。単なる勝手な空想で、隣の芝生を青く見たいだけなのだろうか。

 

来る老年を忌避したいのは、俺様の欲求がかなわないままであることに耐えられないということで、それに不服があるのはいかにも愚鈍なノンケ男性の態度なのだろうか。それとも非ノンケ的ナルシズムの裏返ったものなのだろうか。

バトル・オブ・ザ・セクシーズ

バトル・オブ・ザ・セクシーズ」(ジョナサン・デイトン/ヴァレリー・ファリス)をDVDで観る。面白かった。家で二人でペラペラ喋りながら観る映画としては最高に楽しめた。1972年アメリカのテニス業界における実話を元にしているらしいというのを観始めてはじめて知ったのだが、まず70年代の西海岸の雰囲気も主人公が所属している女性団体的なメンバー構成も「如何にも!」という感じで観ていて楽しく、さらに主演のエマ・ストーン、これまで数本の作品で観たことあるけど「この女優、本当にすごいんだな」と驚かされるほど本作は素晴らしかった。ちなみに観終わると邦題の"セクシーズ"のニュアンスにやや違和感を感じる。sexの複数形でsexes、battle of sexesである。複数の性、その闘い、本当にそのような映画だった。

 

事前の知識をまるで持たずに観たのだが、当時で言えばウーマン・リブか、いわゆるフェミニズム的な考えを強く推し進めたい女子テニス選手たちの一派があって、旧来の保守的で男性優位的な考えを変えようとしない(優勝賞金などが男女で露骨に違うなど)プロテニス団体だか委員会だかと激しく対立している。しかし女たちも一枚岩ではなくてここに性的アイデンティティの問題が入ってくる。要するに男女平等問題と見せかけて、LGBTQ問題の作品なのだ。いや"問題"というよりも、元々既婚者であるエマ・ストーンが美容師の女に髪を切られながら、その相手に強く魅了されてしまう場面が序盤で出てくるのだが、この場面がじつに官能的というか、恋愛のはじまりの瞬間の繊細さが瑞々しくて、そのエマ・ストーンが素晴らしくて、あ!こんな映画なのか?とびっくりする反面、最初から感動させられる。しかしそんな「恋人」を作ってしまうエマ・ストーンをこころよく思わない(夫と子供がいる)メンバーもいたり、組織運営を最優先で考えたいマネージメント女史もいたり、ものすごくオシャレなコスチュームデザイナーのゲイ風オジサンがいたりと、まるで一枚岩とは言えない女性側の状況が描かれる。

 

男性側も事態は単純ではなくて、既得権益をしっかり守りたいおじさん達は単純ではあるのだが、そのような対立構造を利用して、あえて男女の対決を演出する炎上商法ショーみたいなのを企画してこれを自分のビジネスとして上手くやってやろうとたくらむ、かつては一流のプレイヤーだったがすでに五十代半ばで一線を退いて今や半ば芸人みたいになっている男が出てくる。この男が異様に軽薄で派手好きで困った感じなのだが、次第にその内側にかかえている問題やら何やらが見えてきて、話が進むにつれてこの人物の陰影もじょじょに複雑になっていく、単純な悪役ではなく、彼も彼自身の「バトル」を闘ってきて、今も闘争の只中にいることが、少しずつあらわになってくる。

 

で、クライマックスに「世紀の対決」みたいなものすごいショー演出の元で男女テニスタイトルマッチが繰り広げられて、試合のシーンはテレビ中継を見てるみたいな抑えた演出で、そして最後は、、と…まあ、単純に面白いし、試合終了後もじつにいい感じ。最後にエマ・ストーンがベンチに座って一人泣くシーンがあり、その表情や前後の流れからでは涙の理由が、必ずしもはっきりとはわからないのだが、そこがかえってすごく味わい深いというか、おお、エマ・ストーンの演技、ほんとうに素晴らしいなと、あらためて感じ入ってしまった。

1秒と100時間

埼玉の実家へ。母と姪の子(7歳)がいた。姪はいつものようにべたべたべたべたと、ひたすら甘えてきて、こちらの背にしがみついたり、べったりからだを寄せてきたり、膝の上に乗ってきたり、まあ、このくらいの年齢の子なら皆そうなんでしょうけど、すごいスキンシップ精神旺盛で、午後になって仕事を切り上げてやってきた妹夫婦に「ものすごくサービスのいいホステスみたい」と最低な感想を言ってしまった。すいません。夏休みの絵の宿題を手伝ってほしいと言うので、よしわかった、でもお手伝いできるのは1秒だけなのだと言うと、1秒じゃ短すぎる、1秒って、ピ!っていうくらいの時間だけでしょ、と言うので、わかった、じゃあ2秒にしてあげると言うと、2秒でも短いでしょ!と怒る。ポケモンのぬいぐるみをやたらと並べてどれが好きかしつこく聞くので、どれもかわいくないけど、これでいいと答えると、えー?かわいいでしょ!と怒る。それで今ポケモンの映画が公開中らしくて、おじちゃん映画観に連れてってよと言うので、お父さんと行けばいいじゃんと言う。やだよおじちゃんが連れてってよと言うので、わかった、じゃあ一人でおじちゃんの住んでるところまで電車で来てくれたら映画連れてってあげるよと言うと、おじちゃんの住んでるところ電車でどれくらい?と聞くので、だいたい100時間くらいかなと言うと、100時間??長い!そんなのウソでしょ。100時間は長過ぎでしょ!!と怒る。

 

で、そのうち疲れてきて、飽きて静かになる。こちらは飲みすぎる。夜半に帰宅。

芸者もの

妻が観たいと言うので、成瀬巳喜男「流れる」をdvdで観る。十何年ぶりの再見。自分にとって「流れる」はとくべつな作品。ゆえに観るのがこわい。もし「大したことない」などと思ってしまったらどうしよう、そんなはずはないのに自分の体調やコンディシションのせいできちんと作品を受け止められなかったらどうしようというかすかな不安がある。でもそんなに緊張してたってしょうがないので、覚悟をきめてのぞむ。

 

はじまって10分かそこらで心配が杞憂に終わった。登場人物の多様さ、その一人一人の動きの複雑さと細やかさ、ものを言うときの声色、言い草、テンポの違い、出来事のめまぐるしくもなめらかな流れ方。そして山田五十鈴の圧倒的な素晴らしさに、脳内の刺激性のなにかがものすごい勢いで沸き立ってくるような興奮をおぼえる。幸田文の小説「流れる」が、小説として珠玉の大傑作であるのは言うまでもないが、成瀬の映画「流れる」もまた大傑作である。幸田「流れる」と成瀬「流れる」は、作品としてまったく違う質をもっていて、それぞれがお互い無関係にどちらも傑作だ。そのことにあらためて感動する。

 

成瀬「流れる」はしかし、いつもの成瀬的なやるせなさや世知辛さやうんざり、げんなりな人間関係のしんどさみたいなものは勿論しっかりと含まれてはいるのだが、それでもこの作品については物語へのそんな感情移入が必要ないというか、それぞれの役割を担っている登場人物たちがあまりにも魅力的過ぎて、そこから切り離された一個の出来事単体として鑑賞できてしまえるというか、その立ち振る舞いや表情をぼーっと愉悦の思いで観ているだけで、そのくりかえしで最後まで終わってしまうようなところがある。

 

電話する山田五十鈴、立って、着物の帯を締める山田五十鈴、さあもう一杯いかがですと酌をする山田五十鈴、お勘定は月末にまとめて払いますからって言ってね、と伝える山田五十鈴。三味線をひいて合いの手を入れる山田五十鈴…。結局、この人を見ているだけではないか、映画って、そんなバカみたいに単純なことでいいのだろうか、でもこの魅力は本物だろう、そうとしか思えないじゃないか。

 

そして、栗島すみ子の放つ存在感の凄さをことばで言い表すのは不可能だ。この姐さんにまかせて、この姐さんの決めてくれた通りにことが運ぶなら、いかなる結果であれ、私はもう良いのだ、納得できるのだ、これ以上、なにも考えなくてよいのだと、思ったとして、そのことを誰が責められようかと思う。そのくらいの厳しさと頼もしさがあって、そして最後はさっと血の気がひくくらいの冷酷さ、現実的なところを垣間見せる。

 

もちろん田中絹代もいい。その場から浮いている如何にもな丁寧言葉が効果的だし、何しろ梨花という当時としてはきわめてハイカラな名前をもつとの設定もいい(これは原作の通り)。こういうのが最終的にこの女性の「ちょっと新しくて頭の良い使える人材」であることの裏付けとしてすごく効いてくるのだ。高峰秀子がじつは一見、新しい時代の女の役割を担っているようでいて、彼女はそうではないのだ。というか、まだ若いのだ。まだ一軍で登板する役割ではないのだ。次のニューリーダーは田中さんなのだ。

 

そして杉村春子。終盤の目の覚めるようなブチ切れ激怒のためだけに居るような感じもあるが、いやいやそんなことはない。山田五十鈴にかわってお座敷に出るのをたのまれたときの、電話越しに三味線の節を確認するシーンとか素晴らしすぎる。最後の高峰秀子に向かう怒りは、あの髪のほつれ方や着物の前が少しはだけて乱れてる感じとか、ほとんど凄惨すぎて目をそむけたくなる。「男を知ってる女」が男から捨てられて、その必要性を嘆くときに「男を知らない女」高嶺秀子が、女に男なんか必要ないと言う。それで戦争になる。というか「ほう〜?言ってくれるじゃないのこのお嬢さんは」となって憎しみが沸騰して、爆笑になる。地獄の底から聴こえてくるようなバカ笑いの声だ。

 

まあ…しかし、玄人の女を囲う男たちというのが、昔も今もいるのでしょうね…。今だって銀座のクラブとか京都のお座敷とか、そういう場所に連んでる男女が、あるんでしょうなあ。お金があるというのはそういうことなのでしょうな。まあ素人同士で不倫だ何だで揉めるよりは、きっぱりさっぱりで、よほど結構なことなのかもしれないが、しかしこれこそ、まさに金の世界。そして金の切れ目が縁の切れ目であるというのは、水が低きに流れますというのと全く同じ意味で、そういうことなのでしょうね。この映画も、ほとんどそのことしか言ってない話である。それにしても山田五十鈴を援助してくれるかもしれなかった(結局見捨てられた)何とか先生の使いっ走りというか伝令係みたいな甥の男とか、あんな役割を仰せつかってる男というのもこの世にはいるのか…と、今この場とは違うこの世の現実をぼんやり想像してしまうのであった。

 

「流れる」が面白かったので、その勢いでもう一本「芸者もの」行ってみましょうかとなって、続けて溝口健二「噂の女」をdvdで観る。「流れる」は東京の老舗の芸者屋だが、こっちの話は京都が舞台で、置屋を仕切るのは田中絹代で、商売そのものは繁盛してるっぽい。芸者の髪飾りなんかずいぶん派手派手で、というか高橋由一の絵に花魁を描いたのがあるけど、まさにあんな感じのお祭り事みたいな凄さだ。

 

 

音楽学校を卒業して帰ってくる娘は久我美子で、長身を黒い洋服に包んで突ったつその姿は完全にオードリー・ヘップバーンそのものという感じだ。溝口にしては緩めというか、母娘二代揃ってが悪い男にコロッと行かされそうになるのを何とか立ち止まって頑張って最後はホームドラマ的終局をむかえる楽しい話ではあるのだが、芸者という存在の厳しさ、そのような生き方を選ばざるを得ないことの悲しみをおり挟んで話の奥行きを立体化しており、とくに屋内を芸者たちが群像としてうごく際の、幽玄さに満ちたカメラワークには息を呑む。そういうすごく美的な感じと、痴情のもつれ的な下世話話な感じが、上手くかみ合わさっているのかいないのかよくわからないけれどもとても面白い話。

 

ちなみに「噂の女」は2006年に僕がはじめて観た溝口作品だった。前述した幽玄さ荘厳さに満ちた場面の連続にすっかり興奮状態になったのを今でもおぼえている。「近松物語」も、成瀬「流れる」を観たのも翌年あたりか。当時の感想は以下。

 

 

「噂の女」(恵比寿ガーデンシネマ)」2006-09-23

https://ryo-ta.hatenadiary.com/entry/20060923/p1

 

「流れる」2007-06-09

https://ryo-ta.hatenadiary.com/entry/20070609/p1

 

「噂の女」2007-07-10

https://ryo-ta.hatenadiary.com/entry/20070710/p1