「噂の女」


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去年の9月、恵比寿の溝口特集上映で観て強い衝撃を受けた「噂の女」を再度観る。久々に観た印象としては、思ってたより判りやすい構造だなあという事だった。ただし、和と洋であるとか、母と娘であるとか、家業と自由であるとか、男と女の生き方の違いであるとか、進歩的と旧態依然であるとか、そういう対比のわかりやすさ、と思いきや、そういう事でもない。むしろ、物語的なところはさほど奥深く考えさせるようにはなっておらず、あからさまに雰囲気としてダシにして使われてる感じである。


…第一、大谷友右衛門演じる医者なんかマンガの悪役みたいな薄っぺらさだし、田中絹代狂言を鑑賞して自分をあざ笑われてるように感じるとか、久我も始終逆上する割には何考えてるかわかり辛いとか、とにかく総じて物語が物語のまま映画から浮いて上滑りしていくような感じである。太夫が酔客に口移しで水を飲ませるシーンなんか一瞬おお!っと思うが、それはショッキングだからそう思うだけの事である。最後に久我が、最終的に「私の場所」として井筒屋を再発見するという下りも、映画自体にとっては、ほとんどどうでも良い事のようにさえ思われる。


そもそもこの映画は、京都の置屋太夫たちといった極めて強いイメージの只中に、長身に黒尽くめで裾がゆったり広がったフレアスカートのワンピースを纏った久我美子を投入するという「仕掛け」がはじめから隠されもせずに露にされている。だからこの映画の面白みは、単純に要素還元した抽象画のようなフォルムとか色の対比を単純に楽しむというのがまずある。常にスタイリッシュな洋装の久我はしばしば、太夫が並んで食事をしている傍らとか、化粧部屋の入り口とかで仁王立ちになる。誰かと会話をする事で、自分の真っ黒なワンピースのシルエットを相手の着物姿に重ねていく。単純だが、これらのシーンはやはりとても素晴らしいし、キレイである。


しかし、この映画で何がもっとも重視されているのか?と言ったら、やはりそれは「井筒屋」という場所・室内空間に間違いないだろう。それと、その内部で動き回っている太夫たちの姿だ。…様々な要素があれ、結局はそれらの空間と人物群像の有様を只ひたすら撮影して、映画に仕立てる事こそが目指されているように思われる。


室内空間の手前と奥に、それぞれ何か動きがあって、それらが一挙にカメラで捉えられる際の驚きというのは、本当に不思議なものだ。何かとんでもない広がりとざわめきをおぼえる。手前は玄関で一段下がっている。向かって右手に勘定場があり、左手には中庭へ続く廊下があり、奥には別の廊下があり、斜めに階段が掛かっている。…たったこれだけの舞台を、複数の役者がそれぞれ一挙に動くというだけで、ものすごい何かが生成するのだ。


あとは、最初に久我が太夫たちと打ち解けあう、あの看病のシーンはやはり圧倒的に素晴らしい。群像っていうのは本当にすごい。レンブラントの絵で解剖してる博士を学生が覗き込んでるのがあるが、仮にあれが突如ぐワーッと動き出したら、あの看病のシーンのような感じではなかろうか。


あと印象的なのは、やはりラストシーンだろう。奥から、ゆっくりゆっくりと、この世のものとは思われないような姿の、盛装した太夫たちが、客先へと向かうために、手前に向かって移動してくる。まるで美しさの塊のように、まるでこちらに迫り来る幽霊のように…。繁華街の裏通りにも見える井筒屋前の路地には、酔っ払いと女、自転車で通り過ぎる人、などがまばらに行き来している。その通りを薄暗い静かな海原を行く船のように、ゆっくりと移動していく太夫。静謐で強いイメージ。感動とか興奮とか、そういうのではない、何も意味しない極めて安定した美しさを湛えつつ映画が終わる。