芸者もの

妻が観たいと言うので、成瀬巳喜男「流れる」をdvdで観る。十何年ぶりの再見。自分にとって「流れる」はとくべつな作品。ゆえに観るのがこわい。もし「大したことない」などと思ってしまったらどうしよう、そんなはずはないのに自分の体調やコンディシションのせいできちんと作品を受け止められなかったらどうしようというかすかな不安がある。でもそんなに緊張してたってしょうがないので、覚悟をきめてのぞむ。

 

はじまって10分かそこらで心配が杞憂に終わった。登場人物の多様さ、その一人一人の動きの複雑さと細やかさ、ものを言うときの声色、言い草、テンポの違い、出来事のめまぐるしくもなめらかな流れ方。そして山田五十鈴の圧倒的な素晴らしさに、脳内の刺激性のなにかがものすごい勢いで沸き立ってくるような興奮をおぼえる。幸田文の小説「流れる」が、小説として珠玉の大傑作であるのは言うまでもないが、成瀬の映画「流れる」もまた大傑作である。幸田「流れる」と成瀬「流れる」は、作品としてまったく違う質をもっていて、それぞれがお互い無関係にどちらも傑作だ。そのことにあらためて感動する。

 

成瀬「流れる」はしかし、いつもの成瀬的なやるせなさや世知辛さやうんざり、げんなりな人間関係のしんどさみたいなものは勿論しっかりと含まれてはいるのだが、それでもこの作品については物語へのそんな感情移入が必要ないというか、それぞれの役割を担っている登場人物たちがあまりにも魅力的過ぎて、そこから切り離された一個の出来事単体として鑑賞できてしまえるというか、その立ち振る舞いや表情をぼーっと愉悦の思いで観ているだけで、そのくりかえしで最後まで終わってしまうようなところがある。

 

電話する山田五十鈴、立って、着物の帯を締める山田五十鈴、さあもう一杯いかがですと酌をする山田五十鈴、お勘定は月末にまとめて払いますからって言ってね、と伝える山田五十鈴。三味線をひいて合いの手を入れる山田五十鈴…。結局、この人を見ているだけではないか、映画って、そんなバカみたいに単純なことでいいのだろうか、でもこの魅力は本物だろう、そうとしか思えないじゃないか。

 

そして、栗島すみ子の放つ存在感の凄さをことばで言い表すのは不可能だ。この姐さんにまかせて、この姐さんの決めてくれた通りにことが運ぶなら、いかなる結果であれ、私はもう良いのだ、納得できるのだ、これ以上、なにも考えなくてよいのだと、思ったとして、そのことを誰が責められようかと思う。そのくらいの厳しさと頼もしさがあって、そして最後はさっと血の気がひくくらいの冷酷さ、現実的なところを垣間見せる。

 

もちろん田中絹代もいい。その場から浮いている如何にもな丁寧言葉が効果的だし、何しろ梨花という当時としてはきわめてハイカラな名前をもつとの設定もいい(これは原作の通り)。こういうのが最終的にこの女性の「ちょっと新しくて頭の良い使える人材」であることの裏付けとしてすごく効いてくるのだ。高峰秀子がじつは一見、新しい時代の女の役割を担っているようでいて、彼女はそうではないのだ。というか、まだ若いのだ。まだ一軍で登板する役割ではないのだ。次のニューリーダーは田中さんなのだ。

 

そして杉村春子。終盤の目の覚めるようなブチ切れ激怒のためだけに居るような感じもあるが、いやいやそんなことはない。山田五十鈴にかわってお座敷に出るのをたのまれたときの、電話越しに三味線の節を確認するシーンとか素晴らしすぎる。最後の高峰秀子に向かう怒りは、あの髪のほつれ方や着物の前が少しはだけて乱れてる感じとか、ほとんど凄惨すぎて目をそむけたくなる。「男を知ってる女」が男から捨てられて、その必要性を嘆くときに「男を知らない女」高嶺秀子が、女に男なんか必要ないと言う。それで戦争になる。というか「ほう〜?言ってくれるじゃないのこのお嬢さんは」となって憎しみが沸騰して、爆笑になる。地獄の底から聴こえてくるようなバカ笑いの声だ。

 

まあ…しかし、玄人の女を囲う男たちというのが、昔も今もいるのでしょうね…。今だって銀座のクラブとか京都のお座敷とか、そういう場所に連んでる男女が、あるんでしょうなあ。お金があるというのはそういうことなのでしょうな。まあ素人同士で不倫だ何だで揉めるよりは、きっぱりさっぱりで、よほど結構なことなのかもしれないが、しかしこれこそ、まさに金の世界。そして金の切れ目が縁の切れ目であるというのは、水が低きに流れますというのと全く同じ意味で、そういうことなのでしょうね。この映画も、ほとんどそのことしか言ってない話である。それにしても山田五十鈴を援助してくれるかもしれなかった(結局見捨てられた)何とか先生の使いっ走りというか伝令係みたいな甥の男とか、あんな役割を仰せつかってる男というのもこの世にはいるのか…と、今この場とは違うこの世の現実をぼんやり想像してしまうのであった。

 

「流れる」が面白かったので、その勢いでもう一本「芸者もの」行ってみましょうかとなって、続けて溝口健二「噂の女」をdvdで観る。「流れる」は東京の老舗の芸者屋だが、こっちの話は京都が舞台で、置屋を仕切るのは田中絹代で、商売そのものは繁盛してるっぽい。芸者の髪飾りなんかずいぶん派手派手で、というか高橋由一の絵に花魁を描いたのがあるけど、まさにあんな感じのお祭り事みたいな凄さだ。

 

 

音楽学校を卒業して帰ってくる娘は久我美子で、長身を黒い洋服に包んで突ったつその姿は完全にオードリー・ヘップバーンそのものという感じだ。溝口にしては緩めというか、母娘二代揃ってが悪い男にコロッと行かされそうになるのを何とか立ち止まって頑張って最後はホームドラマ的終局をむかえる楽しい話ではあるのだが、芸者という存在の厳しさ、そのような生き方を選ばざるを得ないことの悲しみをおり挟んで話の奥行きを立体化しており、とくに屋内を芸者たちが群像としてうごく際の、幽玄さに満ちたカメラワークには息を呑む。そういうすごく美的な感じと、痴情のもつれ的な下世話話な感じが、上手くかみ合わさっているのかいないのかよくわからないけれどもとても面白い話。

 

ちなみに「噂の女」は2006年に僕がはじめて観た溝口作品だった。前述した幽玄さ荘厳さに満ちた場面の連続にすっかり興奮状態になったのを今でもおぼえている。「近松物語」も、成瀬「流れる」を観たのも翌年あたりか。当時の感想は以下。

 

 

「噂の女」(恵比寿ガーデンシネマ)」2006-09-23

https://ryo-ta.hatenadiary.com/entry/20060923/p1

 

「流れる」2007-06-09

https://ryo-ta.hatenadiary.com/entry/20070609/p1

 

「噂の女」2007-07-10

https://ryo-ta.hatenadiary.com/entry/20070710/p1