メッセージ、井上実

ドゥニ・ヴィルヌーヴ「メッセージ」をDVDで。一度観ているのだが再見したら思いのほか面白く思った。面白いというか、とくに前半の、むっつりと不機嫌そうな憂鬱そうな表情のエイミー・アダムスの醸し出してる雰囲気が良いのだ。人影のまばらな大講義室だとか、薄暗くて広大な間取りで窓の外には湖の広がりが一望できる自宅のリビングとか、たいへん豪華で快適そうな住環境でありながら、住人である彼女の気分は常にふさいでいる、もう若くはない、独身の言語学者の女性の、この感じがじつにいい。軍に協力することになって、昇降機で「殻」内部に侵入し、無重力状態に身体を投げ出すあたり、自分は高所恐怖の気があるので非常に怖いのだが、このあたりまではけっこう面白く観た。ただし中国が動いて各国の対立がはっきりしてからの展開は、話を盛り上げようとしすぎで、ちょっと退屈になる。また、冒頭からたびたび挿入される亡き子供を回想するシーンだが、この女性がいつも浮かぬ顔でいる原因は「過去」にこの不幸があったからだろうし、今は夫も子も失った身なのだろうと、最初は想像させるのだが、これが実はそうではないことが終盤に判明する。だったらなおさら、後半がこれほど手に汗握るハラハラ展開にしなくても良かったのに、とは思うところだ。

その後、出かける。

聖蹟桜ヶ丘のカフェ、キノコヤで井上実×古谷利裕アーティストトークを聴く。井上実作品を知る者にとって、このトークを聴講できたのはきわめて貴重な機会だったし、作品を制作する作家という存在の凄さを、あらためて感じさせるものだった。井上実さんの学生時代から現在に至るまでの仕事を、作品写真で時系列的に参照しながら、ほとんど作家本人の半生をたどるような話で、それが時代的には僕自身の記憶にも重なる要素が少なくない部分もあり、たいへん聴きごたえのある面白い時間を過ごした。

フォートリエ、あるいはレンブラントターナーなどの、分厚いマチエールをもつ作品へ魅了されたところからはじまって、美大に入学したものの90年代初頭の時代的な風潮にどうしてもなじめず、自身の仕事への模索が続いた初期の時代、年代ごとに紹介された作品写真は、作家ご本人としては苦しい記憶とともにふり返るような思いもあるのかもしれないが、僕から観るとふつうに「すごく良い」と思えるものがいくつもあり、しかしたしかに暗闇での手探りを繰り返しているという印象も同時に感じられ、でも一貫した真摯さに裏付けされた、しっかりの背筋が伸びた作品ばかりで、それでも90年代から00年代にかけての主に二十代の時期を「地獄だった」と作家はふりかえる。2000年代になって「もう美術でなくてもかまわないと思った」という悲壮な覚悟の言葉が出て来て、やがて作品サイズは小さくなり、大きく余白を多くとった、あのスタイルが生まれて、さらに2010年前後まで来て「もう絵画でなくてもかまわないと思った」という、さらに決意を込めたような言葉まで出てくる。作家ご本人がとても飄々と軽やかな感じで語るのが、かえって凄みがあるというか、それほどまでに追い詰められて撤退を繰り返しながら継続のためのフィールドを探し続けるとは、これほど力量のある画家が、そこまで覚悟を決めて踏ん張っていなければならなかったのかと、いやそれは逆で、そこまで腹を括っていなければ、ここまで凄い成果にはならないのだと思われて、その歩みの凄さをあらためて感じた。その後、2011年から15年にかけて、隙間を細かく生じながらも画面全体を絵の具が覆う、あの現在のスタイルが出来上がっていく。

手を加えすぎて、目の前の絵が死んでいくことが、何よりもおそろしい。さっきまで、活き活きと多様な可能性を含んで呼吸していた画面が、ほんのちょっとしたことで、たちまち硬直して濁って死んでしまう。描く人にとってもっともおそろしい瞬間。


片側に物としての絵画があって、もう片側にまだ表象されてないイメージがあって、その間に、ひとりの人間(作家)が、間に挟まったままで手足をうごめかせて、なんとかして両者を媒介させようとしているところを想像してみる。作家として生きるとは、その宙吊りの板はさみ状態に耐え続けることだとして、そのことを想像してみる。

物とイメージのはざまで、これほどまでに不安や恐怖を感じ、祈るような思いで生きなければならないなんて、絵画にかかわるとは、なんと過酷な営みだろうか。絵画をつくることが、これほどまでに過酷であるならば、作家や絵画や芸術に関係する者たちはいっそう団結して互助しつつ互いを励まさなければならないはずなのに、現実はまるでそうではない、画家が意気消沈の時間をもたねばならないなら、そんな環境とはいったい何だろうかと思う。いやそれは環境のせいではなくて、あくまでも作家の進もうとする先が、つねに茨の道であるということを示しているだけなのかもしれないが。

描き続けることが、失敗をくりかえすことだとしたら、それはあまりにも過酷だ。上手くいきそうな予感は常にあるから、それを元手にして、描き続けていられるのだが、失敗は常になによりも恐ろしく、不安で、その過程においては、どうかお願いしますと、ただ祈りたいような気持でいる。恐怖をおぼえながら、手を合わせて祈りながら、なんとか完成まで耐えることが制作なのだとしたら、その過酷さは想像を絶する。

でも逆に、これほどまでに作家とは、自分を過信してはいけないのだということを、井上実さんが身をもって示しているとも言える。根拠ないまま、たまたま上手くいった作品の良さを再現しようとしても、ろくなことにならない。二十年ほど前の、ただ模索するばかりの状況を「二十代のときの地獄」と表現されていた。その「地獄」が今でも思い浮かぶから、今でも失敗がおそろしい。それは作品が死んでしまったことの悲しみでもあるだろうが、もっと暗くて謎な、掴みきれない根拠のなさが、いきなり現前して大きく口を開けたときの恐怖でもあるのだろうか。あるイメージを、自分を賭して何十年も追いかける義務を自らに課した画家である以上、それに耐えることは画家の誰もが等しく受けなければいけない報いなのだろうか。しかしそれほどまで苦しんでいる画家が、この世にいったい何人いるのだろうか。

井上実さんの作品では、制作方法としては写真をもとに鉛筆でキャンバス上に下書きをしたうえで、少しずつ油彩による着彩を加えていく。キャンバスは木枠に張られる前のまだ丸められた状態のまま、描く部分が進むに応じて、少しずつ広げられる場所を変えていく。すなわち画家は制作しながら作品の途中経過を確認できる余地を自ら断っているので、絵の全容はすべての着彩が終わった時点でしか、確認されることはない。そもそも、そのモチーフは路肩や叢の雑草や何の変哲もない草木であり、厳密に云えばそれら草木たちの折り重なったり網目状に伸び広がっている様子とその隙間の様子とが、カメラのフレームによって適当に切り取られたものである。ほとんど中心も周辺も主役も脇役も判別できないような、層状にランダムに伸び広がっている様子そのものだ。その様子がまるで「描く機械」によって端からコピーされるがごとくキャンバスに移しとられていく。描く行為のなかで、画面や絵の具や画材から細かく返ってくるだろうフィードバックを、先取りした全体のためには一切奉仕させないということ、そんなことを作家である人間にする権利はないと云わんばかりに、たった今の出来事をそのまま留め置くだけの、その繰り返しだ。僕から見て壁の右手にあった大作は、制作期間五か月とのことだ。物とイメージとが、なるべく直接、純度高く通信できるように、これほどまでに自分を消去し、ないものであるかのようにふるまう必要が、作家にはあるのだ。

それにしても2013年の仙川で発表された大作の写真を久々に観たけど、なんという異様な絵だろうかとあらためて驚いた。

(たとえば浅見貴子さんの作品でもそうだし、デジタル以前の写真も、版画もそうだが、制作の途中で状態を確認できないこと、一度はじめたらやり方を変えずに最後まで進み、適切な位置で止めるしかない制作方法は、絵画史的にはとくに新しい出来事ではない。絵画はいつも物質としてすでに存在しているので、そこに何が書き込まれているのかが、誰にでもわかるのに誰もがわからないような結果になっている。制作している作品を先取りして、仮定した目的の場所から今を見返すような視点をもってはダメだと井上実さんは言ってるように思えるけど、完成した作品を目のまえに観ているときは、逆にこれが描かれた経緯を最初から逆向きに想像させるようなところがある。たぶん通常の時間に基づいた知覚認識と真逆の出来事が、絵画の上では起きているかのように感じられる。時間をさかのぼっているというか、雑草や草木であることから出発する逆向きの時間旅行を観ているような。もちろんそれは、ところどころ歪んでいる。ただの表面でもあるし、ある個所は流れてもいる。…こういうのは、思い付きの言葉でしかないかもしれないが。

キノコヤは素晴らしいロケーションのお店で、お店の前を川が流れていて、夜の黒々した水の流れに、橋の上の街頭や信号機やビルの灯りが白や赤や青の光の帯になってありありと映し出され、揺らいでいた。

メランコリアとキラー・インサイド・ミー

明後日の樫村晴香ソロトークにあたり「事前に観ておくと良い」と提示された三本の映画のうちAmazon Prime Videoでラース・フォン・トリアーメランコリア」を観る。トリアー観るなんて久しぶりすぎるというか、昔「ダンサー・イン・ザ・ダーク」と「ドッグヴィル」で散々な思いをさせられて懲りたので、今ではこんなきっかけでもないかぎりぜったいに観ようとは思わない作家の作品である。

妹役のキルスティン・ダンストと姉役のシャルロット・ゲンズブール、全体がそれぞれのパートから成っていて、前半でのキルスティン・ダンストは新婦として自分の結婚披露宴を自らぶちこわしにする。人生における「晴れの舞台」において、ことごとく失敗というかむしろ自ら失敗を招き寄せて徹底的に台無しにしてしまう。その猛烈な気まずさ、不愉快さ、身の置き所のなさ、取り繕いようのなさ、それがえんえんと続く。お金持ちで、才能があって、容姿端麗で、素晴らしく豪勢な結婚式で、美味しい食べ物と酒があって、しかしそれらすべてに塵ほどの価値も見出さない。ずっと続く不愉快さを味わい続けつつ、もしかしてけっこう贅沢なものを観ているのかもしれないという気もする。…で、シャルロット・ゲンズブールの後半にきて、話の最後には「メランコリア」によって地球が滅亡してしまうのだが、その最期の瞬間、何もかも終焉するという事実に狼狽するシャルロット・ゲンズブールに対して、鬱状態キルスティン・ダンストが寄り添う。そもそも、不安とは何だろうか、私にとって、あの人にとっての、心をざわめかせるものの違い、二人の心配、その種類と質の違いが並べられている。世界は同一のはずだが、二人の見ているものはまるで違う。しかし最後の瞬間は正確きわまりない均等さでおとずれる。

続いてマイケル・ウィンターボトムキラー・インサイド・ミー」。驚いた。これはひどい。映画における暴力描写にもいろいろあるけど、本作は相当えげつない。連続殺人者と捜査側との攻防というか、ミステリーっぽい話で、話が完結する最後は、ある種の爽快感もなくはないのだが、それにしてもあのシーンには目を背けないではいられない。これは性的嗜好の表現なのだろうか、サディストって、こういうものだろうかと、浮かぬ思いで考える。最後、あの女の子は二度殺されたようなものだなと思って思わずため息が出る。

渋谷再会

九月で職場を去った人の、その後いかがですか会のために渋谷へ。集まったメンバーはかつてその人の内輪歓迎会と内輪送別会をやった僕を含めた三人と当人。一か月ぶりに会って、ひさしぶりの感も勿論感じながらも、なつかしいこの声と抑揚、あーなるほど、やっぱりこの人は、人を面白がらせて楽しませて、相手をとことんいい気分にさせて、楽しいひとときを作り出す才能において、ほとんど天才的なんだなと、あらためて思った。三宅さんとはまた全然違うタイプだけど、でも彼女も、ある意味「調停者」だろうなと思った。そしておそらくだけど、その外面的な楽し気な態度とは全然別の、まるで華やかなレストランの裏手で料理人たちが走り回る怒涛の厨房みたいな、激しくも冷徹な計算が内面にめまぐるしく処理されているのだろうとも思った。それにしてもこんな面白い人と毎日ランチしてたんだから楽しかったに決まってるわ…と。つまりは4月ごろに感嘆したのとほぼ同じ感想をあらためて思い浮かべた。ただし僕とはまるで違う思考・嗜好・志向の人であるとわかっていたけど久々の再会であらためてそう感じた。だからこそ余計に、凄い能力だなと思わされるのだが。

それにしても渋谷は夜になってもすごい人混みで困憊した。

帰宅後、ビールと一緒にと思って、カマスの干物を焼こうとして、カマスの鋭い歯で親指の腹を切った。小さな切り傷だがけっこう深く掘ってしまった。カマスの身にもかなり赤く色がついてしまったが、かまわずにグリルに突っ込んで焼いてしまって、そのまま食べた。汚い話ですいません。

自撮り

27日の三宅さんの日記の、自撮り写真の話に爆笑。あるカップルが、雑誌やテレビのワンシーンのような、いや、そういうイメージのなかでももっとも俗っぽくコテコテな雰囲気のいかにもキメキメなポーズと仕草の「自己演出」で自撮りして、それをSNSに上げていて、その女性の知り合いでもある三宅さんがその写真を見て驚愕したという話なのだが、「(…)正気を疑わざるを得ない。」から続けてたたみかけていく下りが死ぬほど面白くて一分くらい笑い続けてしまったのだが、でもそんなノリノリの自撮りというのは、ある意味逆に、自意識がまったくないからそれが出来るとも言えるのかもしれない。自分を使って、そういう感じになるという、かなり現実主義的な計算からやっているのかもしれないとも思う。自分を、「この私」ではなく、単にその他大勢の中の一人と本気で考えることができるなら、そういうことも可能になるのかもしれない。でもそれはけっこう難しいことだろう。いずれにせよ羞恥の基準をこちらと共有していない相手を前にしたら、こちらは常に脅かされる立場だ。

ナルシシズムというのは、自意識過剰と似ているようでいて、じつはちょっと違うのではないか。ナルシシズムとは自意識を見失った主体に折り返された転移ということになるのだろうか。その意味で上記の自撮りは、ナルシシズムという感じではない気がする(写真そのものを見てないけどおそらく)。いや、ナルシシズムなのかなあ…。その自意識が、どのくらいの被写界深度かによるのだと思うけど、ナルシシズムってけっこう浅い範囲で発生するものかもしれず、だからこそ固有の「良さ」(?)があるのかもしれない。いや、というか、主体においてナルシシズムと羞恥が対になってめまぐるしく入れ替わる状態を自意識過剰と言うのか。なんか、何を言いたいのかわからなくなってきた。

無い

宇多丸、『ジョーカー』を語る!【映画評書き起こし2019.10.18放送】
https://www.tbsradio.jp/421215

これを読むと「ジョーカー」という作品が参照している過去作品について詳しく説明されていて興味深いし面白い。なるほどそういう観方があったか、とは思った。たしかにデ・ニーロ出てるしな…。そういう観点もあるだろうし、惹かれる人がいるというのは、理屈としてはよくわかる、とは思うが、だったら僕の作品に対する印象も変わったか?と言うと、それは無いのであった。

そういえば「タクシードライバー」は、映画の細かいニュアンスはほぼ忘れてしまったけど、はじめて観た時に、さほど面白いとは思わなかった記憶はある。「フレンチ・コネクション」もそうかもしれない。「キング・オブ・コメディ」は観てない。観たら面白いのかもしれないが。しかし「ジョーカー」は、もう一度観たいとはさすがに思わない。ホアキン・フェニックスは「インヒアレント・ヴァイス」はいい感じだったのに今回の嫌なイメージが自分の記憶に上塗りされてしまったのがつらい

ジョーカー・ひめごと

MOVIX亀有でトッド・フィリップス「ジョーカー」を観る。が、これは失敗した。べつに期待していた訳では全然ないのだが、しかしそれにしても予想をはるかに下回り、自分にはまるでつまらなかった。せっかくの休日に、これを観ているという状況を後悔した。途中で退場したかったのだが座席列の端にも客がいて、前を横切るのも悪いと思って仕方なく最後まで観た。…なんか妙に昨今の世間っぽさにおもねって、情緒的に肯定か否定かを迫るだけみたいな態度でイヤな感じの作品で、しかし昔はつまらないと思ったら作品や作り手に対して怒りとか嫌悪を感じたりもしたが、最近はそういう感情も薄くなって、単に自分が選択を誤った、観に来たやつがバカなのだ…とか、思うくらいになってしまったかもしれない。けして良いことではないが。


帰宅して、DMM.COMの動画配信にて堀禎一夏の娘たち ひめごと」を観る。75分くらいの作品で、立ち上がりから中盤にかけて、とてもあっさりと淡々と端正にことが運んでいくので、一瞬不安をおぼえる。最近観てる映画がみんな雑駁すぎて(自分が雑すぎて)、もしかしたら今観ているこの作品の独特の質感を捉えそこなっているのではないかという不安。

どんな映画だったか?それを書くのは非常に難しい。もう先が長くない父と、病院を見舞う母と長女と長男、そして看護師の養女。養女と長男は惹かれあっていて、結婚を考えている。養女の母は旅館で働いている。養女は父親が誰かを知らない。長男はやさしい男だが、やさしいだけでは…と迷っている。しかし夜になれば人影のない無人の小屋で抱き合う。

父が亡くなった葬儀の夜、葬儀の参列者が集まる。先日旅館に泊まった男はもともとこの町出身で、その幼少時代を母親も養女の母もおぼえていた。なつかしさに思わず嬌声があがる。

誰かと誰かが近づいたり離れたりすることと、死んだらまた生まれてくることが、同価値として観察されているような、とても不思議な視点から見つめられている世界だ。転生的というか深沢七郎笛吹川的なイメージを思い浮かべたりもした。最初の方の場面で、養女と長男は15歳とか13歳ではじめて関係をもったときから"中出し"していて、なぜ妊娠しなかったのかと長男が問えば「後で、沢でよく洗ったから」と養女はこたえる。その沢で、養女、長女と長男、旅館男、長男の友人、それに友人が通う店の子も来て、水着姿で、笑いながら、水に足をとられてよろけながら、水の流れに身体を横たえながら遊ぶ。

養女は長男との結婚を決意すると、心臓が悪い養女の母は軽い発作で倒れる、やがて持ち直す。店の子は妊娠したと告げる。それを聞いて養女はショックを受ける。店の子は、妊娠は嘘だと言う。母親がまた倒れる。手を差し伸べると、その手を払って母親は起き上がる。発作は嘘だったのか。

養女は長男と結婚しないことを決める。やがて旅館男と関係をもつ。長男は怒り、考え直すよう諭すが養女は聞かない。結婚式の前夜、長男が自殺したことを知り、花嫁衣裳の養女は泣く。式に出席する皆が集まる。店の子は妊娠している。誰の子供なのかはわからない。

養女の母役の速水今日子がとても良かった。何が良いのか説明が難しいのだが、とにかくたいへん良かった。

I've Grown Accustomed to Her Face

「ギター弾きの恋」で演奏されてる"I'm Forever Blowing Bubbles"を聴くと、なぜかWes Montgomeryの"I've Grown Accustomed to Her Face"を聴きたくなる。

I'm Forever Blowing Bubbles for solo guitar
https://www.youtube.com/watch?v=YYO5C2Q1tR8

Wes Montgomery - I've Grown Accustomed To Her Face
https://www.youtube.com/watch?v=tZ9RD4FkRgA

"I've Grown Accustomed to Her Face"を聴くと、20歳くらいのとき自室で、タバコの煙にクラクラしていたあの時あの場が、鮮明に思い出される。なんとなく当時の夏=異郷の夏の夜に連想が移り、ちょっとエスニックというか、不思議な情緒感をともなうのだが、そのおそらくノスタルジーに浸っているのともちょっと違って、単に今聴きたくて聴いているはず。理由はなく、ただ聴いていると快適だから聴いている。はじめて知ったけど"I've Grown Accustomed to Her Face"って、マイ・フェア・レディの一曲だったのか。…それにしてもこういう、どうでもいいわりにわりかし頻繁に思うことというのは、きっと過去にも一度か二度くらいは書いてるのだろうな、と思って自ブログ内を検索してみると、意外にそうでもないことが多い。