空しさ

その違和感は、自分に起因するのか、自分以外に起因するのか、どちらが変わったのかわからないみたいなことは、いまだに、たまにある。自分で自分が空しくなるとしたら、それは何かつまらないことに夢中だったかつての自分を思い出したからかもしれないが、でもつまらないことは、じつはつまらなくない、かつての自分が面白かったのに、今の自分がつまらない、それだけのことかもしれない。自分の内側から、ある執着が消えていくと感じたとき、それは考え方の変わったあとの自分をイメージさせ、考え方が変わった自分を自覚するのは、少し遠目から自分を客観視できていることの気持ちよさがなきにしもあらずで、でもそんなのはみんな錯覚じゃないだろうか。考えかたが変わったなんて、恥ずべきことだと思ったっていい。それともやはり、どんなときにでもかすかな空しさが、つねに何パーセントばかりかは含みながら、飽きもせず堂々巡りにうろつき回っているくらいを、むしろ最適なコンディションに思うべきだろうか。

匂い

ふと匂いに気付いた。いつ、どこでだったのかは忘れた。それがどんな匂いだったのかも、もう忘れた。それに気付いた、ということだけはおぼえている。小学校一年のときに、友達と入り浸っていた駄菓子屋兼ゲームセンターの椅子の匂いだった。椅子なのか、熱を放つゲームマシンの筐体から漂う匂いなのかはわからないが、その店の椅子に座ると、いつもあの匂いがした。

昨日、どこでその匂いを嗅いだのだったか…。いったい何の匂いだったのか。

明け方、目が覚めて、時計を見たら五時過ぎだった。そのまましばらく横になったままでいて、このまま眠れずに、朝になりそうだと思った。アラームが鳴るまでは眠りたかったが、それよりもさっきまで見ていた、なつかしい夢の中へもう一度戻りたいという気持ちが強かった。匂いが、夢だったというわけではない。匂いは現実だったはず。たぶん見ていた夢は、壁紙だった。汚れた壁紙が、目の前にあった。それ以外のことを、まるでおぼえていない。にもかかわらず、目覚めてしまうとそれがなつかしくて、再び眠りの中へ戻れないことがかなしくなる。

そのあと通勤電車で、座席に座って文庫本を開いていたら、しだいに眠くなり、居眠りをはじめた。本の続きを読んでいるつもりが、また曖昧な夢を見ていた。手元から本が落ちそうになったことに気付いて、それでハッとして目覚めた。抑えていた指がページの端から外れて表紙だけが引っ掛かっていた。書名が記載された次のページをじっと見ているような状態で眠っていたのだった。そのとき僕は、細かいスナック菓子がたくさん入ってる袋を不用意に傾けてしまい、中身がその場にぜんぶこぼれ落ちてしまう夢を見ていた。

消化日

今日も一人の休暇、午前中はこのブログ記事を書いていた。昼は八丁堀の店でランチを摂る。ビジネス街なので昼は異様に活気があって、従業員はみな顔が殺気立っている。先週も今日も酒を飲んでるのは自分だけだ。忙しなくてあまり居心地がいいとは言えないが、出てきた料理はまさにブラッスリーという感じで、これはさすがだ、やはりなかなかだと思った。食後は東京駅そばのカフェに移動し、テラス席でブログ記事の続きを書いていた。週末の東京は寒くて酷い天気だったようだが、週明けの今日は晴天になってくれて良かった。これで連休も終わり、あっけない。老朽化したケトルと、この前誤って割ってしまったティーサーバーを新調した。夕方帰宅して、夕食の支度をした。夜になって書いたものをアップロードした。読み返したら面白くない文章で、かるく気が滅入った。が、いまさら仕方がない。

ふたば

昨日は食事から戻って風呂入って就寝、今朝気づいたらすでに朝九時前で、両者共にこんなたくさん眠ったのは、ものすごく久しぶりのこと。二人とも飲みすぎです。

部屋のカーテンをあけて窓の外を見下ろすと、まだ午前中の大通りは人も車も少なく、自分らのいるフロアよりも低い建物が道路を挟んだ向かいに寂しげに建っているのが、妙にいい感じの、いかにもな旅情を誘う。おお、、知らない景色、今は旅行中なのだ、と思う。

チェックアウトして伏見の街を名古屋駅まで歩く。昨夜の栄周辺もそうだが、名古屋は道幅が広くて整然とした碁盤目状の区画に区切られている。栄はまさに典型的な夜の繁華街で、ビルの壁に積み上げるかのようにお店の小さな看板が色とりどりに光っており、路上には呼び込みのお兄さんたちが海藻のように揺らいでおり、ところどころ高級車が路肩に停車しており、眩しい光の下でひらひらした衣装の髪の色を明るく染めた若い女性たちが入り口から溢れたかのようにはみ出して複数人で絡まりあっていたりもするのだが、それでも栄は、銀座や六本木とはあきらかに違う雰囲気があって、どことなく燥いでいなくて、いやおそらく誰もが楽しくて騒がしいのだが、その喧噪よりもそれらを取り囲む空間の方が、無体に大きくて、声や物音を丸ごとみんな吸い込んでしまっているような感じなのだ。昨日と今日はちょうどG20と称する外務大臣会合が開催されたせいで路上には警察車両も多くその影響があったのかもしれないが、それだけではない常態としての固有な静けさがこの地には元々あるような気がした。

明けて、今朝の景色もそうだ。伏見駅から名古屋駅までの風景は何の変哲もないビジネス街ではあるのだが、はっきり感じるのはそこが東京のビジネス街とはまったく違う場であるということで、何が違うのかと言えばまず空間の密度が違う。空間の密度の違いはおそらく地価とかビジネス感覚とか見積もりとかの経済的係数の違いにリンクしているのだと思う。金銭の計算結果が違ってくれば、結果としてビジネス街はこんな風に様相を変化させるのだと思う。見上げたときの空の大きさだとか、高いビルとそうでもないビルの割合とか、角地の使い方とか、そういうことが一々、ここが東京とは別の係数ではじかれて成り立ってる場所であることを実感させる。日曜日の午前中で人通りも少ないが、たまにすれ違う人の雰囲気も違う。ビジネスホテルや連れ込み系ホテルの立ち並ぶ感じも、コンビニの配置も、ぽつりぽつりと開店する店の感じもそうだ。名古屋のホテルでよく見かけたのは、入り口玄関から歩道の端まで(ニューヨークのヴィレッジバンガードみたいな)天蓋が張り出していて、これがいかにも昔っぽい雰囲気を醸し出している。どのホテルもおおむねそのようなエントランスなのだ。

名古屋という場所への思い入れもなければ知識もなく、ただ歩いているだけでも、というかむしろその方が目に飛び込むあらゆるものが新鮮に見えるところはある。ほんの少しの違いで良くて、むしろそれくらいでほど良いというか、快適に思うのだ。ところで名古屋市立美術館ではカラヴァッジオ展を開催中のようで、これを見ずに名古屋を去るのはどうかと思うところなきにしもあらずながら、まあいいかと思って新幹線のチケットを買う。掛川までの指定席は残席僅かで、あわてて購入して乗り込んで、満席に近い車両の別々の席で一時間ばかり移動したが、隣車両の自由席はがらがらだったことが下車後に判明し、新幹線むずかしいと、経験不足な読みの足りなさを痛感する。

掛川駅前は静か。新幹線が停車する地方駅に降り立つ機会はめったになくて、十年以上前に岐阜羽島に降りたことがあったけど、空間的なスカスカさと静けさに共通する雰囲気はあるかもしれない。自動車は走ってるけど、人間の姿は皆無の世界。歩いて二十分ほどの場所にある掛川花鳥園を目指す。ハシビロコウの"ふたば"さんに会いに来たのだ。それ以外にも無数の鳥たちが飼育されている施設なのだが、実際に来てみてわかったのは、別に鳥が鳥たちだけで檻に入っているわけではなくて、むしろ人間が巨大な檻のなかに入って鳥と一緒にたたずむような施設で、なにしろとにかく人間との境目が皆無で、そのへんの公園の鳩と人間の距離感そのままに、クジャクだろうが白鳥だろうが南国のインコだろうがフラミンゴだろうが、どんな連中だろうが見境なく垣根なく我々と同じ地平にいて同じ空気を吸って同じ空間にいる。あまりの近さに、鳥という生き物が本来その程度にしか人間から離れていない生き物であると錯覚しそうになるというか、少なくともこの場所においては鳥という生き物をさほど珍しいものに感じない、彼らが遥か昔から人間と生活をともにしてきたかのような偽の記憶を彷彿させるほどなのだ。

ただしさすがに、ハシビロコウだけは人間との間に柵が設けられている。園内のいちばん奥に"ふたば"はいるのだが、群がる人々から一定の距離を保ったまま、"ふたば"はひたすら凝固するかのようにその場に佇んでいるばかりである。あの鳥を見ると、我々夫婦はいつも言葉をうしなう。ただ見つめて、時折顔を見合わせて、また見つめて、それをくりかえす。我々老夫婦があの鳥を見に来るというのは、なんだかほとんど老親が子供のステージをはじめて見に来たかのような哀れさがあるようで、我ながら遠い目になるというか、柵の一番手前の場所を群がる子供たちに譲りながら、ああ、あの子は今まで通り元気でやっているようだなと、もちろん我々は"ふたば"を見るのは今日がはじめてなので、そんな思いにふけるのも変なのだけど、まあ場違いな場におそるおそる、子供たちに混ざって動かぬ鳥を観察してきたのである。

ハシビロコウには麻薬的な魅力があって、一度とりつかれるとなかなか抜け出すのが難しいのだが、ちなみに上野動物園には四羽のハシビロコウがいるのだが、それに飽き足りずわざわざ掛川まで行って別の個体まで確認しに行くとは、いったい何があなたがたをそうさせるのか、何が良いのかをまともに問われたとしても、返すことのできる言葉を今は持ち合わせていない。ただ、見つめるしかない状況に追い込まれる、という感じだ。今回、この掛川において、ハシビロコウが飼育員のお姉さんから餌をもらう光景をはじめて見学することができたのだが、ああ、そうかお前もそんなときはごはんが食べたくて、えさをもらいたくて、そこまで気が気でない、そわそわとした態度になるんだねと、差し出されたお魚を凝視して、いてもたってもいられない様子で、ばたばたとお姉さんに近寄っていき、猛烈な勢いで嘴を差し出すんだなあと、その様子をいつまでも感無量で眺めるしかない我々であった。

三時過ぎに掛川を後にする。ほんとうは三島にも立ち寄る予定だっただが、予定が大幅に押したのであきらめて東京へ戻ることに。昨日、今日と東海道沿線はいずれも好天に恵まれたが、東京に近づくにつれて曇り空がたちこめる。ただしその直前、一瞬だけ富士山の姿が垣間見えた。

名古屋へ

午前十時過ぎの新幹線で名古屋へ。途中、曇り空のせいで富士山は見えなかったけど、沼津を過ぎたあたりで分厚い雲の向こう側に鮮やかな青色がのぞきはじめ、その割合がしだいに増えていった。名古屋の手前で雲は完全に消失した。車窓の向こう、住宅や低いビルなどがひしめき合う地面が彼方まで広がっていて、遠景は山々に囲まれていて、そしてその地平をつつむかのように真っ青な空がかぶさっている。光がまぶしい、ほとんど夏が戻ってきたのではないかと思うほどの明るさ。名古屋のプラットホームに降り立って、汗ばむような猛暑だったらどうしようかと思うくらいの眩しさ。もちろんそんなことはないのだけど、それでも薄手のコートを着ている必要はなかった。朝時点の東京が冷たい雨に凍えるような天候だったのが信じられない。

名古屋から伏見駅へ、そしてさらに電車で小一時間移動して豊田市駅まで。徒歩二十分くらいで豊田市美術館に到着する。「岡﨑乾二郎 視覚のカイソウ」。会場は驚くほどの賑わい。混んでいるわけではないけど、なんだか活気に満ちている。なんだこの雰囲気は、まるで往年の、現代美術がもっと元気で野心に満ちていた、はるか昔みたいな雰囲気ではないか…とか思っていたら、今日はオープニングレセプションの日で招待客や関係者が多数会場にいたのだった。

岡﨑乾二郎作品のまとまった展示はこれまでにも何度か観ているが、ここまで大規模な展示は記憶にない。2014年のBankArtにおける展示規模も相当すごかったけれども、今回はそれをはるかに凌駕するだろう。展示数もさることながら会場全体の空間の使い方が贅沢きわまりない。とくに印象的だったのは、サイズの大小のダイナミズムというか、もともと相当にゆったりした空間内で、通常の大きさや小ささの尺度がちょっと麻痺しているような状態で、仕掛けられた大小の差異の波動のようなものを観続けていると、いつしか感覚にフレームの規定がおのずと緩み始めるというか、ほとんど溺れるような感覚に近づいてくる感じがあった。

セラミック、タブロー、立体、それぞれのテクスチャーのうつくしさが盤石で、しかしなぜそれを美しいと思うのか、透明から半透明へ移り変わっていく状態、同系統の彩度でつつましく色相と明度を変えつつ踊るように配置される形態の関係/無関係は、それがだからどうだというのか、それをうつくしいと思うのは自分が何か間違っているのようにも思うのだが、どうしても根底に揺るがない美しさがあり、それが基盤になったことの安定感に支えられている感じがある。そして、その結果を観ているとき、そのように描かれたということ、その出来事が起こってしまったということ、決定的な瞬間でもあり、その事後でもあるような在り方。一度起こってしまったことはもう取り返しがつかない。覆水盆に返らず、やってしまったことは仕方ない。結果がどうあれ、あきらめるしかない、いや、偶然の産物がこれほどまでに上手くいってしまったことが後ろめたい、自分の手柄じゃないのに報酬を得たようなもの、そんな偶然の産物としての絵画、しかしそれが同時に、また再び繰り返されるという予感でもあり、じつは繰り返されていたことの発見でもあるような在り方、悪いことは必ず二度続く。幸せは、何度でも手元に届く。でも既視感からは絶対に逃れられない。檻の中から出られない。それにしてもあの、手の切れるような空間の裂け目は何だろうか。描いたというか、描かれたというか。描いたなら制御下におかれた結果の提示だし、描かれたならその自覚さえない、だれにも気づかれてない可能性すらありえる。また、描いてないというか、描かれてないというか。いずれにせよそこには何もないはずなのだが、そうは見えないとしたらそこには描く/描かない以外のどんな出来事があったのか。…こんな言葉に何の意味があるのか、不本意ながらまあ仕方ない。これはたぶん感想ではない。

夜が近づいてきた頃、名古屋市伏見に戻ってホテルにチェックインして風呂に入って栄の店に出る。今日誕生日だけど占いで明日死ぬかも、とか言ってるおっさんの年齢が僕より五つも若くて複雑な気分になる。若い職人さんの名古屋地元の自虐ネタが面白くてげらげら笑う。

ランチ

休暇だが、1人なので、久々に昼からフレンチだ!となって、予約を入れて着替えておもてにでたら驚くほどの真冬のような寒さ。そして雨。暗く重々しい色の空。風もあってときおり傘を持っていかれそうになりつつ駅まで歩く。こんな絵に描いたような悪天候の日にわざわざ外に大げさな飯を食いに、しかも1人でって、阿呆ではないかと思うが、行く先や興味の矛先は時代によって違ったとしても、僕の場合だいたい何十年も前から今にいたるまで似たような行動パターンというか、いざ思い立ったときが、ちょうどコンディション最悪なときに重なるのはしょっちゅうである。予約の時間に到着して着席し、よく冷えたグラスのシャンパンからはじめたものの全身が芯から冷え切っており、かじかんだ指先のせいで持ったグラスを傾けて口元に運ぶのにやや難儀するほどだったが、それでもしだいに、氷の内側に熱さが溶け出すかのように、しだいにほぐれ、身体がほどけていく。いつ来てもメニューにそれほど変わりばえのない店だが、しかしやはり美味しい。ワインはどれも安くはないけどちゃんとしたものばかりグラスで揃ってるし、料理は頑固なまでにクラシカルで、やっぱりこういうきちんとしたことをずっと続けているというのがすごいと思う。シェフはシャイでけっこう口下手な人の印象だが、僕もあまり喋るのは得意ではないし感想をご本人に言うなんて恐れ多いと感じてしまうところもあり、いつもながら愛想笑で誤魔化すみたいな甚だ無礼な態度で逃げるように店を後にするのだが、そんな我が後ろ姿を丁寧にいつまでもお見送りいただいてまことに恐縮の限りなのだが。まあ本当はそんな固く考えずにざっくばらんにお話したほうが良いのはレストランも美術展示のギャラリーなんかでも一緒で、作家は客の言葉をとても重要に思っているのはよくわかってるつもりではあるのだが…。

休暇の前日は、何事もなく業務が終わってほしいとの思いで疲れる。こんなに気疲れするくらいなら休みなんか取らない方がかえって楽だというのは、意外に誰もが思っていることでもあるし、僕もわりとそんなところがあって、ふだんはいわば休むことをサボってるというか、仕事と休みのきちんとしたメリハリをつけないで、毎日をだらだら漫然とやってしまう典型的なしょうもない人なところはある。が、昨今のきちんと有給取りましょう的な風潮でそうもいかなくなってきたのだが、それにしても何につけてもお仕事というのは、今まで何も無かったところに突如として何かが有るということにして、それを見立てて、それをもって生れて始めてそれを知ったかのように、皆でわいわい騒ぐみたいな、いつまでも続く終わりなき何とも知れぬ不条理劇みたいな営みであるなあなどと、今更のように思いもするが、そんなこと誰もがうすうす、いやはっきりとはじめから気づいているのだが、誰もが平然とした顔でそれをやり過ごして日々を送る。そんなことを今更ことさら、言い立てたりするのは愚の骨頂で無粋でバカバカしくてつまらない、誰も取り合う気のない、笑えるわけでもなく感情をそよがせる気にすらならない話だよ、大人のふるまいとは言えないね。とかなんとか。それでも駅や電車内で困ってる人を見かけたら助けてあげようね、とかなんとか。