ふたば

昨日は食事から戻って風呂入って就寝、今朝気づいたらすでに朝九時前で、両者共にこんなたくさん眠ったのは、ものすごく久しぶりのこと。二人とも飲みすぎです。

部屋のカーテンをあけて窓の外を見下ろすと、まだ午前中の大通りは人も車も少なく、自分らのいるフロアよりも低い建物が道路を挟んだ向かいに寂しげに建っているのが、妙にいい感じの、いかにもな旅情を誘う。おお、、知らない景色、今は旅行中なのだ、と思う。

チェックアウトして伏見の街を名古屋駅まで歩く。昨夜の栄周辺もそうだが、名古屋は道幅が広くて整然とした碁盤目状の区画に区切られている。栄はまさに典型的な夜の繁華街で、ビルの壁に積み上げるかのようにお店の小さな看板が色とりどりに光っており、路上には呼び込みのお兄さんたちが海藻のように揺らいでおり、ところどころ高級車が路肩に停車しており、眩しい光の下でひらひらした衣装の髪の色を明るく染めた若い女性たちが入り口から溢れたかのようにはみ出して複数人で絡まりあっていたりもするのだが、それでも栄は、銀座や六本木とはあきらかに違う雰囲気があって、どことなく燥いでいなくて、いやおそらく誰もが楽しくて騒がしいのだが、その喧噪よりもそれらを取り囲む空間の方が、無体に大きくて、声や物音を丸ごとみんな吸い込んでしまっているような感じなのだ。昨日と今日はちょうどG20と称する外務大臣会合が開催されたせいで路上には警察車両も多くその影響があったのかもしれないが、それだけではない常態としての固有な静けさがこの地には元々あるような気がした。

明けて、今朝の景色もそうだ。伏見駅から名古屋駅までの風景は何の変哲もないビジネス街ではあるのだが、はっきり感じるのはそこが東京のビジネス街とはまったく違う場であるということで、何が違うのかと言えばまず空間の密度が違う。空間の密度の違いはおそらく地価とかビジネス感覚とか見積もりとかの経済的係数の違いにリンクしているのだと思う。金銭の計算結果が違ってくれば、結果としてビジネス街はこんな風に様相を変化させるのだと思う。見上げたときの空の大きさだとか、高いビルとそうでもないビルの割合とか、角地の使い方とか、そういうことが一々、ここが東京とは別の係数ではじかれて成り立ってる場所であることを実感させる。日曜日の午前中で人通りも少ないが、たまにすれ違う人の雰囲気も違う。ビジネスホテルや連れ込み系ホテルの立ち並ぶ感じも、コンビニの配置も、ぽつりぽつりと開店する店の感じもそうだ。名古屋のホテルでよく見かけたのは、入り口玄関から歩道の端まで(ニューヨークのヴィレッジバンガードみたいな)天蓋が張り出していて、これがいかにも昔っぽい雰囲気を醸し出している。どのホテルもおおむねそのようなエントランスなのだ。

名古屋という場所への思い入れもなければ知識もなく、ただ歩いているだけでも、というかむしろその方が目に飛び込むあらゆるものが新鮮に見えるところはある。ほんの少しの違いで良くて、むしろそれくらいでほど良いというか、快適に思うのだ。ところで名古屋市立美術館ではカラヴァッジオ展を開催中のようで、これを見ずに名古屋を去るのはどうかと思うところなきにしもあらずながら、まあいいかと思って新幹線のチケットを買う。掛川までの指定席は残席僅かで、あわてて購入して乗り込んで、満席に近い車両の別々の席で一時間ばかり移動したが、隣車両の自由席はがらがらだったことが下車後に判明し、新幹線むずかしいと、経験不足な読みの足りなさを痛感する。

掛川駅前は静か。新幹線が停車する地方駅に降り立つ機会はめったになくて、十年以上前に岐阜羽島に降りたことがあったけど、空間的なスカスカさと静けさに共通する雰囲気はあるかもしれない。自動車は走ってるけど、人間の姿は皆無の世界。歩いて二十分ほどの場所にある掛川花鳥園を目指す。ハシビロコウの"ふたば"さんに会いに来たのだ。それ以外にも無数の鳥たちが飼育されている施設なのだが、実際に来てみてわかったのは、別に鳥が鳥たちだけで檻に入っているわけではなくて、むしろ人間が巨大な檻のなかに入って鳥と一緒にたたずむような施設で、なにしろとにかく人間との境目が皆無で、そのへんの公園の鳩と人間の距離感そのままに、クジャクだろうが白鳥だろうが南国のインコだろうがフラミンゴだろうが、どんな連中だろうが見境なく垣根なく我々と同じ地平にいて同じ空気を吸って同じ空間にいる。あまりの近さに、鳥という生き物が本来その程度にしか人間から離れていない生き物であると錯覚しそうになるというか、少なくともこの場所においては鳥という生き物をさほど珍しいものに感じない、彼らが遥か昔から人間と生活をともにしてきたかのような偽の記憶を彷彿させるほどなのだ。

ただしさすがに、ハシビロコウだけは人間との間に柵が設けられている。園内のいちばん奥に"ふたば"はいるのだが、群がる人々から一定の距離を保ったまま、"ふたば"はひたすら凝固するかのようにその場に佇んでいるばかりである。あの鳥を見ると、我々夫婦はいつも言葉をうしなう。ただ見つめて、時折顔を見合わせて、また見つめて、それをくりかえす。我々老夫婦があの鳥を見に来るというのは、なんだかほとんど老親が子供のステージをはじめて見に来たかのような哀れさがあるようで、我ながら遠い目になるというか、柵の一番手前の場所を群がる子供たちに譲りながら、ああ、あの子は今まで通り元気でやっているようだなと、もちろん我々は"ふたば"を見るのは今日がはじめてなので、そんな思いにふけるのも変なのだけど、まあ場違いな場におそるおそる、子供たちに混ざって動かぬ鳥を観察してきたのである。

ハシビロコウには麻薬的な魅力があって、一度とりつかれるとなかなか抜け出すのが難しいのだが、ちなみに上野動物園には四羽のハシビロコウがいるのだが、それに飽き足りずわざわざ掛川まで行って別の個体まで確認しに行くとは、いったい何があなたがたをそうさせるのか、何が良いのかをまともに問われたとしても、返すことのできる言葉を今は持ち合わせていない。ただ、見つめるしかない状況に追い込まれる、という感じだ。今回、この掛川において、ハシビロコウが飼育員のお姉さんから餌をもらう光景をはじめて見学することができたのだが、ああ、そうかお前もそんなときはごはんが食べたくて、えさをもらいたくて、そこまで気が気でない、そわそわとした態度になるんだねと、差し出されたお魚を凝視して、いてもたってもいられない様子で、ばたばたとお姉さんに近寄っていき、猛烈な勢いで嘴を差し出すんだなあと、その様子をいつまでも感無量で眺めるしかない我々であった。

三時過ぎに掛川を後にする。ほんとうは三島にも立ち寄る予定だっただが、予定が大幅に押したのであきらめて東京へ戻ることに。昨日、今日と東海道沿線はいずれも好天に恵まれたが、東京に近づくにつれて曇り空がたちこめる。ただしその直前、一瞬だけ富士山の姿が垣間見えた。