個体差

年齢を重ねるごとに脳の動きも鈍くなっていく、若い頃なら脳が活発なので、日々蓄積する身体の疲労に、かえって気付くことが出来なくて、そのせいで身体の調子を崩すこともあったが、年齢を重ねると、むしろ調子を崩すほど身体を酷使できなくなった…という、先日のRYOZAN PARK巣鴨で、そんな話が出ていた気がする。。

一つの働きに脳全体が占有されがちになって、本来の身体センサーとしての機能がおろそかになってしまう、動作にそんな「偏り」が生じるのが、脳の"活発さ"だということだ。若くて体力があるというのは、脳が常にバランスよく全方位的に正常動作できるということではなくて、むしろパワーがあっても使い込みが足りずバランスが悪いので、ある一極にリソースが集中しがちで、限界ぎりぎりまで演算処理が走るから他処理がおろそかになるとか、トルクは異様に高いけど加速が弱いとか、ピーキーだけど乗りこなせばすごいポテンシャルとか、車のエンジンみたいな個体差もあるし特性も違うから、それぞれ個性的で派手に動作して、ことに若いうちはその特性が極端にわかりやすく現われる。

植物とか、機械とか、マグカップとか、それらも意識を持っているのだとして、しかし精神分析の対象となるような意識ではない、「この私」みたいな意識ではないが「それ」であり続けようとする意識だけはあるとか。

障害

昨日の夜、会社帰りにジムへ寄ったら、温水循環設備故障のためプールやシャワー浴室が利用不可能とのこと。仕方なく駅へ引き返したら、JR線の運転見合わせ影響で各線ダイヤが乱れまくっていて改札は人だかり、駅員が大声で何事か叫んでいる。どこもかしこも不測の事態にバタバタしている。交通機関の遅延は日常茶飯事でトラブルというほどではないけど、ジムの故障はビル管理会社の設備工事ミスらしくけっこうデカいインシデントではないかと想像される。やっちまった当の本人、今頃パニくってるであろう…かわいそう。自宅から呼び出されて即時復旧を命じられて、急かされつつ緊張に苛まれつつ原因究明と対策実施と進捗報告と検証を実施して…あとで始末書と再発防止の書類の山を作らされて、その後地下フロアの一番端に薄暗い小部屋に連行されて、そこで関係者立ち合いの元でガツンと鈍い音の出る機械を後頭部に押し当てられて、その場で処刑されるのだ。

電車は来たやつに乗って最寄り駅までほとんどいつも通りの時間に到着した。ジムの故障は深夜三時に復旧したとメールで案内が来た。

金森氏

昨日の夜だけどテレビで録画した「映像研には手を出すな! 」の一話から四話を見た。組織系というかチームでモノを生み出す話で、アニメ制作ノウハウや図解が参照されるのも面白いけど。なによりも映像研の三人のキャラクター感が、今現在の日本にあるコンテンツのまさに現在最新型モデルというか、作品を見る者の感情の移入先としてもっとも洗練されていて心地よいものとして造形されてる感じがする…!と思った。単純に、今高校生とか二十代の人の気分の表現として、これがすごくリアルでスムーズに取り込める感じなのかと。まあ従来とくらべてそれほど変わった性格の人々が出てくるわけではないから、そういうのはいつの時代もさほど変わらないのでは、、とも思うが、でもまったく一緒ではなくてちょっとは違う、というかちょっとは新しい。そのちょっとの差異がこの場合は重要なのだろう。ことにマネジメントというかプロデュースの役割を担う「金森氏」の背格好と、目つきや口元の感じや、ものの言い方。ああいうクール感に何かを感じて心を預けたくなる女子は多いのではないかと(相手として好きになるというよりも自分=ナルシシズムを託す対象としての登場人物)、つまり「金森氏」というキャラクターを見ていると同時に、それをこの世のどこかで、様々な思いで見ているだろう無数の鑑賞者たちの心の中に浮かぶものを想像してしまう。そしてこの世界に無数の「金森氏」が存在することを…。

ドリーマーズ

昨日の深夜だけどPrime Videoでベルトルッチ「ドリーマーズ」を観る。パリ、1968年、五月革命シネマテークのラングロワ更迭、学生たちが激しいデモと小競り合いを繰り返している混乱状況のさなか、シネフィルのアメリカ人留学生である主人公マシューが、同様にシネフィルなフランス人の一卵性双子の姉弟テオ、イザベルと知り合い、彼らの家で奔放な性交渉を含むひとときの共同生活を過ごす。

ゴダール「はなればなれに」の三人、あるいは「女は女である」の三人、あるいはトリュフォー突然炎のごとく」の三人。…「ドリーマーズ」の三人は、それら過去にかがやく栄光の三人組の系譜に連なっているかのような、そんな相似形に自覚的で、だからルーブル美術館を全力疾走で駆け抜けるトライアルも試してみるのだが、しかし彼らは結局、それら過去の登場人物たちのようにあることはできない。

観てみたら、そんな淫靡でエロでアンモラルというわけでもなくて、けっこう素朴な若者たちが登場人物なのだった。シネフィルたちは過去の映画をたくさん観てよく記憶している。その仕草はあの映画のあの場面だとか、その踊りはあの役者のステップだとか、過去をあらかた知っているかのようで、だから白けているし、すれっからしで、大抵の物事にタカを括っていて、善悪も好悪も一言でこたえる。キートンチャップリン、ジミヘンとクラプトン、どちらが優れているかを声高にかたり合う。彼らはまだ二十歳そこそこの学生に過ぎず、外の世界にこれから漕ぎ出していく人間であって、無知な世間知らずであり、見るべきものや体験すべきことは未だほとんどがこれからの状態である人たちだ。革命闘争、マオイズム、父親への反駁と生活全般への依存という矛盾、ベトナム戦争、政治、混沌とする世界情勢…に関して、だから彼らの議論は意外に生硬だし単純で、そのくせ脊髄反射のスピードで熱い感情がほとばしる。

姉と弟でもなく、恋人でもない、二人で一つであるという固有な絆を共有するテオとイザベルは、夜は裸身で抱き合いながら眠り、弟のテオは映画クイズに負けた罰として姉の目の前でマレーネ・ディードリヒの写真を見ながらのマスターベーションを強要されたりする(「嘆きの天使」のスチールを見ながらって…なんと様式美な自慰行為であろうか)。そんな閉鎖系の世界に生きてきた二人が、自らの関係の活性化のため、あるいは新たな経験を取り入れるために、アメリカ人のマシューを自分らの世界に招き入れたのだろうか。イザベルはそこでマシューを相手にはじめての性交渉を経験し、マシューはイザベルに対して感情を揺さぶられ、以後毎日のように関係をもつ、奔放で無計画な、けじめなき三人の関係が絡み合いはするのだが、実のところその中心に始めからイザベルとマシューとのまっとうでありきたりな男女の時間が流れていて、少なくともマシューは"まとも"な社会感覚をしっかりと下地にもつ人で、それが恋人を発見したことで外部へコミットする意欲が芽生え顕在化し、テオとイザベルは事態を受容しつつかつての自分らの絆も確かめ合うことになり、寄る辺なき未知への手探りを続けるかのようだ。マシューの誘いに応じてイザベルはマシューとデートに出かける。映画館に入り、シネフィルとしてかつてのように最前列の席に座ることはせず、最後尾に二人並んで座る。外でデートする恋愛中の若い男女であることを確かめ合うかのように。(映画はスクリーンから放出されてまず最前列の観客を襲い、それがじょじょに減衰しながら後方の客席にまで順次届いて、やがて映写室へ戻っていく…という冒頭のナレーション、社会性をもち恋人をもつということは、映画が放つ光の法則にしたがうことを最優先とせず、後方の座席で相手とくつろぎ抱き合うのを選ぶことである。)(それにしてもミュージカル映画を観る観客たちが暗がりの中、音楽にあわせてゆっくりと頭を揺らし、上半身を揺り動かしている館内のシーンはうつくしい。当時の客はほんとうに、あんな風に映画を観ていたのだろうか。もしかして今でもそうなのか。日本人だけが映画館で身じろぎもせずに笑いも堪えるかのように静かなのだろうか。)

終盤「外」がいきなり窓から部屋へ入り込んでくる。「混乱」が彼らを、死から救い出す。しかし関係がここでほどかれ、火炎瓶の炎が上がり、警察が路上を走り、映画が終わる。

それにしても若い三人の身体が、素晴らしく美しくて瑞々しくて、…うわあ、ハダカがみんなキレイだわーという感じ。匂い立つエロさと、それに貼り付いてる薄ら寒さ、埃っぽさまで感じられるような、その肌の表面をじーっと見ているだけみたいな感じ。

三人共に、高級ワインをやたらとラッパ飲みするのだが、あんな風に飲んでもぜんぜん美味しくないだろうなあ。でも、若者があんな風に高級ワインをガブガブと飲む小説や映画は、けっこうある気がする。むしろ、実際はそんなものなのだろうな。勿体ぶって有難がってるのは貧乏人だけか。

描写

RYOZAN PARK巣鴨保坂和志の小説的思考塾vol.8〈描写を中心に〉を聴講。以下自分なりの解釈によるメモ。

小説において、風景の描写は小説の中心的役割を担うわけではなく、あくまでも副次的な要素なのだfが、しかしそれ無くしては小説がなりたたない。描写こそ小説世界の厚みとなる。そのような厚みをまったく持たず必要としない小説もあり、むしろ最近はそのような小説の方が多いかもしれない(小説を単純で一義的な情報と見なすなら描写は余分な要素に過ぎない)。描写がなされることで、対象があらわれると同時に、説明主体の「身振り、居ずまい、クセ」もあらわれる。それを見て感じたという書き手の経験が、読み手の内側に再起する。読むことを急ぐ読者からは読み飛ばされてしまうかもしれないし、仮にそれでもかまわないが、描写こそが小説の内実。

描写=写生・写実ではない。微細に書き込むことで精度が上がるわけではなく、むしろ客観性や正確性はさほど重要ではない。場合によっては事実と違ってかまわない。カフカの「アメリカ」で、自由の女神が掲げている剣と描かれているが、現実の自由の女神が持っているのは剣ではない。事実とは別のリアリティ、言葉から召喚される必然性を優先させること。名作にも変な描写はたくさんある。なぜ対象が(視線・関心の先が)そちらへ行くのか、なぜその比喩にいくのか、過去の名作は説明のつかない妙な描写の宝庫である。

美文である必要はない。世間で文章が上手いと云われるような文のなんと退屈なことか。形容詞を中心に考えない。それをすると結果的に狭い場所へ追い込まれるだけ。韻文と散文の違いをきちんと捉えること。中途半端な詩の良さへ逃げない、詩のように美しいという言葉に誤魔化されないこと。自身の経験の記憶から生まれてくる、イメージから生み出される名詞と動詞の連鎖をおそれずに連ねること。散文の力を最大限に使うこと。

描写を重ねることで生まれてくる言葉のリズム、うねりのようなグルーブ感。これこそが重要。ガルシア・マルケスフアン・ルルフォらラテン・アメリカ文学に出てくる描写のカッコ良さ。カッコいい言い方をするのではなく言葉自体が湛えているカッコよさ。小説全体がもつ底知れぬ厚みの感じ。逆に書きたいことはいっぱいあるけど描写がない小説の薄っぺらさ、平坦さ。

小説は書かれていることがぎっしりとあって、それを始めと終わりの二つの蓋が閉じ込めているようなもの。始まりと終わりなんてどうでもいい。付いていればいいだけ。物語もどうでもいい。ストーリーなんてほとんどパターンでしかないのだから別になんでもいい。書いたそれが、この後どこへ行くのか、それこそが小説を書くということ。

低速

今週は残業が多くて帰りが遅くなる日が続いていたが、妻も同様らしく一昨日昨日あたり家でほとほと疲労困憊の様子だったので、帰宅途中でメールしたら、ちょうど帰りがけに同僚と一杯やってきたその帰り道だったらしい。僕ではなく妻が寄り道してくるシチュエーションは珍しい。最寄駅で待ち合わせる。閉店間際のスーパーでいいかげんな食材を適当に買って帰宅する。今月はこれで終わり、月日の経つのが異様に早くてあれよあれよというまにもう一ヶ月が…とはあまり思ってない。一月はなぜかやけに長く感じられた。仕事がバタバタしているからかもしれないが、半ばから今週にかけて、時間の流れ方がじつにゆっくりしていた気がする。時間の経過が遅いだなんて、そんなことを感じるのは、いったい何年ぶりだろうか、もしかして、はじめてのことではなかろうか。これってもしや本当に時間の流れが低速化しているのではないのか。去年までのスピードに少し歯止めがかかったのではないのか。もしかして、うるう年?それって関係あるのか?1日多いことのほかに、全体的なスピード調整もされるのか?一日増えるなら、一日あたりに費やされる時間は微減するわけだから、むしろ早く感じなければおかしいはずだけど。

アル・パチーノ

テレビをつけたら、ヤクザだったか、刑事だったか、どちらか忘れたけど、なにしろ怖い人の役で演技しているアル・パチーノがいた。仲間というか部下に取り囲まれて、何か喋っている。イラついてる。たぶん、ハラワタが煮えくり返ってる。感情を抑えて、努めて冷静を保とうとしているが、思いが隠しきれない、言葉の端々に、目つきや口元に、それが垣間見える。…そういう演技をしている。たぶん演技のはずだ。アル・パチーノは役者だから、彼はほんとうに怒っているわけではないのだと思うが、テレビに映ってるその人の様子は、明らかに怒りに震えている、そうとしか見えない。怖い顔をした人が、怒りを抑えて、誰かに何かを話しかけているときの顔。おそらく言葉そのものは普通で、意味内容をスムーズに伝えようとしているだけ。しかしその口元、そしてゆらゆらと定まらない視線の先が、観る者を不安にさせる。心ここにあらずな、ふとしたことで暴発する寸前みたいな、その予兆がそのまま形になったような表情だ。ある意味それは、相手を怖がらせたり恫喝するときの顔ではなくて、むしろ相手に甘え、相手に駄々をこねて拗ねているかのようにも見える。人一倍臆病な人が、不安と焦燥に耐え切れず、そんな自分に困惑しているかのようでもある。相手の男に、できるだけ俺の傍にいてくれないかな、こんなこと言えた義理じゃないが…などと言っているかのようにも見える。怒った男や怖い男の態度が、じつはそういう感じに見えることを、なぜアル・パチーノは知っているのか。