U-NEXTでグレタ・ガーウィグ「バービー」(2023年)を観る。面白かった。思った以上に生真面目で優等生的で、いかにも昨今のハリウッド的でもあるし、後半の、男性/女性の対立構図は、あまりにも鮮明過ぎるわけだが、とはいえ「目覚めてしまって」からの(馬!)ライアン・ゴズリング(ケンたち)の一連の挙動には、声を上げて笑わずにはいられない。やっぱり男性が自分の関心をひたすら喋るのを、女性はいつも鬱陶しく感じてるんだろうなと(笑)。

マーゴット・ロビー演じるバービーが「死にゆく私」(この私)という可能性を発見してしまうことと、男性/女性の役割権利問題が二本立てになっており、後半は男性/女性の闘いで大いに盛り上がる。というか、ものすごくハイクオリティな男性ディスり芸になる。引用される過去映画も、如何にもな楽曲もあまりにも絶妙で、あーそうか、この曲調NGってわかるわー…となる。

(こういう意匠やこういうコンテンツや音楽を、女性はまったく受け付けない、という話ではないはずで、ある意匠の愛好者は何であれ男女共にいる。)

(ミュージシャンや音楽ジャンルの名前をいっぱい並べて喋ってる人…。それって若い男なら、ほとんどそうだし。映画の話も長すぎたら迷惑でしょうけど…ほんとすいません、となる。)

(ノルマンディー上陸作戦みたいな状況を「ケンの内乱」みたいに描くのはすごいと思った。戦争ってつまりアイデンティティをめぐる男性間の内戦ですよね?みたいな。)

思うに、もともとバービーはバービーなだけだったし、ケンもバービー&ケンのケンというだけだった。もともと彼らには「この私」としてのアイデンティティもなければ役割もなかった。ケンはビーチにいるだけで、何の仕事も役割も担ってはいない。「僕はビーチの人」。それだけで良かったはずなのだ。今後のバービーランドは、男女の役割分担で運営されるようだが、それでもできれば元のまま、主権だの義務だのと無関係に、そっとしておかれた方が良かった気もする。「闘い」を志向する欲望は男女間に差異もない。「闘い」を避けるために民主的であるのは善というより必要悪としての規則であって、わざわざバービーランドへ持ち込まれる必要もなかった。でも仕方のないこと。アダムのリンゴみたいにバービーは「死」を知ってしまい、話はそこから始まった。役割を担う仕組みへ自らの意志で身を挺することになった。

ただしバービーランドには以前から「変てこバービー」がいた。変てこバービーとは、年月で経年劣化し、子供たちから飽きられ、髪をハサミで切られ、顔に落書きされ、乱暴に扱われて手足があっちこっちを向いて、足はたいてい百八十度開脚状態になってる、そんな状態だが、彼女だけがバービーランドと現実世界との結節点を知っている。つまり変てこバービーは最初から「死にゆく私」(この私)の可能性を知っていたうえで、バービーランドに留まっていた。大量生産の複製品が個別性なく存在しているバービーランドの住人のなかで、一人だけ取り換えの効かない個体として存在していた(ほとんど壊れているのに)。

ともあれ、清濁併せ持つ人間の世界へやって来て、マーゴット・ロビーが最初に訪れる場所とは…というラストのオチは、なかなかいい感じだった。

DVDで森田芳光家族ゲーム」(1983年)を観る。きわめて演劇的に図式的に、虚構性を隠さない視点をもって、当時の世間一般に流通する家庭のイメージを示し、そこに異物的な家庭教師を放り込んで、生じる出来事を作品とする。その方法が見事に上手くハマったという映画なのだと思う。

そして今や、過去視点でしか観ることのできない映画だとも思う。当時の社会で共有されていた、たとえば金属バット両親殺害事件がもたらしたものが、この作品の基底には気分として流れているのだし、それを知った上で観ざるを得ないし(金属バットという言葉が父親の口から発される)、逆に今これを観て、ノスタルジー抜きで、当時と同じ何かを感じ取ることは難しい。今このように「家庭」をテーマ(問題)にするのは、もはや不可能だろう。

しかし松田優作はやはり松田優作なのだった。いつもの松田優作なのだけど、この演技だけで映画が持ってしまうのだからすごい。松田優作に指導される中三男子は宮川一朗太だが、この適度に感情を抑えた、素直なのか斜に構えてるのかわからないような態度も作品世界にハマっていて、伊丹十三由紀さおりの両親も含め、出てくるみんなが集団催眠的に共犯関係ですよという空気を醸し出す。

伊丹十三の悪いところが出てる映画でもあるなと思う。父親を演じる伊丹十三…って感じが、激しく匂う。家族全員横並びの食卓アイデアはともかく、食べ物をぐしゃぐしゃ弄ぶとか、クローズアップした料理を口で直接舐めたりとか、ああいう振る舞いや演出は如何にも伊丹十三的な感じだ(伊丹十三のテイストが演出に入ってるかは知らないが)。

志望校を変更をさせたくない中学担任教師の態度の悪さはやけに印象的だった。今ならすごく問題になりそう。

ロケ地は豊洲とか勝どきあたりらしい。四十年前は、こんなだったのだなとも思うし、ここに撮影された景色は、今やもう無いだろうけど、だからと言って別に、まあ今も昔も一緒か、とも思う。でも、こういう映画が作られることは、今後もはや考えにくいだろうなとも思う。

Blu-ray北野武「3-4×10月」(1990年)を観る。じつは、はじめて観たと思ったが、たぶんそんなことない。ところどころ記憶に残存している。ずいぶん昔だろうけど一度観ているようだ。

カタギの世界を生きるとは、暇を持て余して部室にたむろする高校生のような時間を日々過ごすということだろうか。ふいに一緒に旅行する恋人のような相手が出来たり、先輩に怒られたりからかわれたり庇われたり、良く知らないやつが誰かと揉めてるところを通り過ぎたり、弱い奴が強い奴に殴りかかって逆にぼこぼこにされたり、そんな感じの毎日が、今この生活だと言って良いだろうか。そうは思えない気もするけど、そうかもしれないし、そうであればいいとも思う。

組織に属するのは、それなりに大変なことで、強い仲間意識とか、厳しい上下関係とか、仲間を守るとか、かたきを討つとか、そういった要素で自分を鼓舞して、共感したり感動したりして、掟にしたがうことの価値を確かめる。それはそれで、楽しくなくはない、そうやって、生きがいとかやりがいとかを、掘り越してやっているのだとも言える。

元ヤクザの井口薫仁は、カタギの今と昔の、どちらをも行き来可能、と本人は思っていたのだろうけど、それは読みが甘かったようで、昔の子分らとのやり取りの末に、大けがをする羽目になる。井口はともかく、ただの若者である小野昌彦や飯塚実にとって、ヤクザの世界など計り知れないものだ。しかし暇を持て余して部室にたむろする高校生のようでもある彼らは、先輩の仇は討たねばならないと感じるから、ひとまず「任侠」のセオリーにしたがうかのようにして、銃火器の入手を試みるべく、沖縄のヤクザの元を訪ねることになる。

本作のビートたけしが演じるヤクザは、沖縄という場も含めて「ソナチネ」のプロトタイプでもあるだろうけど「ソナチネ」よりはやや幼稚で子供じみている。渡嘉敷の指を無理やり切断し、女の頭を百回くらい叩き、足蹴にして、女にゴムボールを百回くらい投げつけ、悪ふざけのような、八つ当たりのような、まさに幼児のように己の行為の許容されるのを見ている。

それは死ぬ前の悪あがき、自暴自棄の一種かもしれないが、そうではなくて彼は彼なりの考えがあるのかもしれない(俺は俺でいろいろ考えてるんだよ、とふざけて笑いながら渡嘉敷を相手に同性愛的愛撫に浸る)。とはいえ、彼の内面や行動の理由を探りたくはならないし、それを匂わせる何かが、画面内のどこかにあるわけでもない。彼は彼であり、許すも許さぬもなく、行為だけがある。そのような人物を傍らで見ていることしかできない。それは表情に怒りや決意などの感情をいっさいあらわさず、ゆえに彼の内面動機や思いを読み取ることができない主演の小野昌彦のとらえ方も同様である。

だから「任侠」にはならず、仇討ちや復讐の枠にもあてはまらず、何もかもが夢のように過ぎ去っていくところが、この映画は、やはり部室の高校生のうたた寝で見た夢のようでもあるのだ。目が覚めると、凄惨で衝撃的な出来事はすでに硝煙とともに消え失せていて、残ったのはトイレを出て草野球のグラウンドへ駆け戻っていく時間の一瞬、あるいは沖縄の砂浜に過ごしていた時間の一瞬、もしくはアイスキャンデーを口にした一瞬、もうそれだけしか覚えてなかったみたいだ。

人身事故で、走行中の電車が突然一時運転見合わせとか、徐行運転になるとかで、帰宅通勤の途中、もう夜遅くだというのに、到着時間が大幅に遅れることはたまにある。

そうなったとき、電車の乗客のうち誰かは、予期せぬ事態に苛立ち、焦り、ため息をつき、ずるずると延びる帰宅予定時間を思い、こうなった身の不運を嘆きもする。その一方で、とくに不平も不満もなく、平常心の人もいる。このあとの予定のあるなしや、心もちの余裕や、もともとの性格にもよる。

苛立ち、焦る乗客の誰かは、人身事故という言葉の向こう側にいるはずの、被害者とされるこの事態を引き起こした誰かを、想像で思い描きもする。もちろんそんなことを一切思い浮かべない人もいる。

たとえば「バタフライ効果」という言葉における蝶の羽ばたきと、人身事故の被害者を引き比べたとき、その「効果」のなんという違いかと思う。「人身事故効果」は、我々電車の乗客と、人身事故の被害者とを、あまりにも迅速に、何の留保もなく直結し過ぎだと思う。蝶の羽ばたきが、いきなり私の頬に風を送ることはないはずなのに、人身事故の被害者はまるで、いきなり私の帰宅を遅らせるがために、その身体に傷を受けたかのようではないか。もちろんそれは、間違いのはずだ。あなたと私が、それほどまでに直結しているわけではないはずだ。

良い作品になりつつあるという感触を強く感じながら制作している、そんな夢を見ていた。

切り刻まれ、折り重ねられた紙片が、所々剥離しながらも、支持体の上に貼りつきインパクトのあるテクスチャーで迫ってくる。非常に好ましい混沌の度合い、未整理ながら豊かな奥行きが生まれつつあり、このまま良い波に乗っていける確かな予感を得ている。

まるで相手の玉を詰める手筋まで読めた将棋盤のように、目の前のイメージがすでに魅惑的なので、胸の高鳴りをおぼえる。肝心な局面ではあるのだが、そのプレッシャーに呑まれるのが自分の悪い癖というか、しっかりと腹を括れてないのが自分の弱さであるのもよくわかっている。

自分ひとりの手柄に、強欲すぎるのだと思う。いちばん大事なのは技術でもなければセンスでもなく、人としてのマトモさと、落ち着きと、他人を慮れるだけの心の余裕だ。

ゆとりは大事、経済的にも精神的にも。それを思いながら画面を凝視している。手前に布団が敷いてあって、ひとまず横になろうかと思うが、さっきから気管支炎のように喉の奥で響くものがあり、やけに息苦しくて、このまま横になっても眠れそうにない。

山拓央のNote(https://note.com/aoymtko/n/n0a0018098591)「死者の時間と他者の時間」を読み、ある小説を読み終えて感無量…みたいな気持になる。結末にたどりつくまでの流れが、うつくしいのだと思う。

同時に、死がいつか無へ移行することの厳粛をも思う。死ですらまだ人間の側にあり、無の手前で「まだ生きている」とまで言ったら言い過ぎだろうけど、たとえば自分が、妻よりも長く生きるというのは、それだけ妻を無へ、出来るだけ近づけないということでもあるだろう。

たとえば幽霊という題材は、死から無への移行間で生じるトラブルとその対処をめぐるフィクションとも言えるのかもしれない。

それにしても、生とは今この時間のことだが、端的にこれはなぜ、肉体の痛みを感じ取るためだけに与えらえた時間ではないのか?などとカフカ風に問いたくもなる。

荒木経惟が撮影した上野駅前の写真。不忍口を出てすぐの上野松竹デパートだが、見ると思わず目をむくというか、ぎょっとさせられる。かの有名な東京の上野駅前であるとは信じがたい景観であり、しかし同時に、あ、なつかしい、昔はたしかにこうだったわ、という思いも同時に浮かび上がってくる。

あのあたりに成人映画の看板がひしめいていたのは、僕の記憶が確かならば、僕が大学生の90年代初頭あたりまではこんな感じだったように思うのだが…。その後いつの間にか、ポルノではなく一般映画の看板が並ぶようになった。しかし街頭に掲げられたポルノ映画のポスターや看板というもの自体、あの頃はどの街でも見かけたもので、当時は珍しくもなんともなかった。それだけ成人映画館も多くて、知らない街をはじめて訪れると、たいてい駅周辺のどこかにはあった気がする。

それにしてもこのような景色を実際に通り過ぎつつ、自分がそういう時代を生きてきたという事実にいまさら驚かされる。まさか、こんなだっけ、こんな非常識な景色を横目にかつては歩いていたのだっけ、と思って、自分が何時代の人間かを一瞬見失いそうになる。

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