Blu-ray北野武「3-4×10月」(1990年)を観る。じつは、はじめて観たと思ったが、たぶんそんなことない。ところどころ記憶に残存している。ずいぶん昔だろうけど一度観ているようだ。

カタギの世界を生きるとは、暇を持て余して部室にたむろする高校生のような時間を日々過ごすということだろうか。ふいに一緒に旅行する恋人のような相手が出来たり、先輩に怒られたりからかわれたり庇われたり、良く知らないやつが誰かと揉めてるところを通り過ぎたり、弱い奴が強い奴に殴りかかって逆にぼこぼこにされたり、そんな感じの毎日が、今この生活だと言って良いだろうか。そうは思えない気もするけど、そうかもしれないし、そうであればいいとも思う。

組織に属するのは、それなりに大変なことで、強い仲間意識とか、厳しい上下関係とか、仲間を守るとか、かたきを討つとか、そういった要素で自分を鼓舞して、共感したり感動したりして、掟にしたがうことの価値を確かめる。それはそれで、楽しくなくはない、そうやって、生きがいとかやりがいとかを、掘り越してやっているのだとも言える。

元ヤクザの井口薫仁は、カタギの今と昔の、どちらをも行き来可能、と本人は思っていたのだろうけど、それは読みが甘かったようで、昔の子分らとのやり取りの末に、大けがをする羽目になる。井口はともかく、ただの若者である小野昌彦や飯塚実にとって、ヤクザの世界など計り知れないものだ。しかし暇を持て余して部室にたむろする高校生のようでもある彼らは、先輩の仇は討たねばならないと感じるから、ひとまず「任侠」のセオリーにしたがうかのようにして、銃火器の入手を試みるべく、沖縄のヤクザの元を訪ねることになる。

本作のビートたけしが演じるヤクザは、沖縄という場も含めて「ソナチネ」のプロトタイプでもあるだろうけど「ソナチネ」よりはやや幼稚で子供じみている。渡嘉敷の指を無理やり切断し、女の頭を百回くらい叩き、足蹴にして、女にゴムボールを百回くらい投げつけ、悪ふざけのような、八つ当たりのような、まさに幼児のように己の行為の許容されるのを見ている。

それは死ぬ前の悪あがき、自暴自棄の一種かもしれないが、そうではなくて彼は彼なりの考えがあるのかもしれない(俺は俺でいろいろ考えてるんだよ、とふざけて笑いながら渡嘉敷を相手に同性愛的愛撫に浸る)。とはいえ、彼の内面や行動の理由を探りたくはならないし、それを匂わせる何かが、画面内のどこかにあるわけでもない。彼は彼であり、許すも許さぬもなく、行為だけがある。そのような人物を傍らで見ていることしかできない。それは表情に怒りや決意などの感情をいっさいあらわさず、ゆえに彼の内面動機や思いを読み取ることができない主演の小野昌彦のとらえ方も同様である。

だから「任侠」にはならず、仇討ちや復讐の枠にもあてはまらず、何もかもが夢のように過ぎ去っていくところが、この映画は、やはり部室の高校生のうたた寝で見た夢のようでもあるのだ。目が覚めると、凄惨で衝撃的な出来事はすでに硝煙とともに消え失せていて、残ったのはトイレを出て草野球のグラウンドへ駆け戻っていく時間の一瞬、あるいは沖縄の砂浜に過ごしていた時間の一瞬、もしくはアイスキャンデーを口にした一瞬、もうそれだけしか覚えてなかったみたいだ。